短考)子どもたちの「根っこ」

途上国の子どもたちの笑顔は、日本人や先進国のそれと比べて弾けていて、素敵だと言う言説って、どことなくノスタルジアと、屈折した優越感にまみれているだけだよなあ。日本人のちっさい子だって、最高の笑顔を見せるじゃんね。

昔やっていた、途上国や日本の子どもたちにインスタントカメラを配るプロジェクトで伝えたかったことの、ひとつはそこだった。違うようで、根っこは一緒なんだよと。しあわせとか、たいせつにしたいものとか、笑顔とか。

根っこは一緒だと伝えられれば、日本とか外国とか分け隔てなく、どこであろうとも、いろんなことに苦しんでいる人を支えたり、助けたりすることの大切さを、伝えられる気がして。つらさとか、苦しさとかって、やっぱり笑顔と同じで普遍的。それを一般化して、落とし込めるきっかけを提供したかった。

(2014/4)

短考)言論について

新聞は日々のニュースを売っているわけじゃない。その中から生み出される「言論」(ないしはその空間)を提供しているんだと思う。オピニオン、インタビュー、論文、コラム、声欄などなど。「ニュースを見るならネットでいい」。これには同意する。
単純なストレートニュースは、どのソースにしてもほとんど内容は変わらない。重要なのは、そういうストレートニュースを広げたり、複数の人が議論をしたり、識者が考え語ったりするもの。そしてそれが、多くの人たちに一斉に配信されるもの。こういう類いの「言論」って、あんまりネット上にはない。「言論」には、信頼性と共有性が必要だ。それらがしっかりと担保された「言論」が、記録性と一覧性にすぐれた紙に印刷されることに、意味はある。視角的に読みやすいようデザインされ、かつ保存性に優れている新聞のウリだ。自らがアクセスしたい「言論」以外の見地を広げるには、新聞っていうのは最も有効なツールなはずだ

新聞を読まないは、ニュースを見ないと=(イコール)にはならない。自分は興味がない、知らない、自分からは見えない「言論」を、もっともっと深いところにしまい込んでしまうことに、つながるんじゃないかと、僕はどことなく危機感を覚える。

(2014/1/3)

山あいの村のおばあちゃんがイラク戦争を語り、東大生が過疎を語る。海辺の町の若い漁師のにーちゃんが反原発を想い、市民活動家が干拓問題を解く。みんなが自分にも関係のない大きな事柄に関して、何かしらの意見を持つことが、言論だと思うんだよね。

(2014/4)

短考)ことばについて

ことばを丹念に紡いだ本を読むと、ことばが身体に行き渡る。そうやって読書はひとを形づくるのだとおもう。考え方とか、見方とか、生き方とか、ことばを咀嚼することで、学びとることができるのだと、おもう。

そんな中で、世の中のものことがどんどん形骸化しているように感じる。年月を重ねて培われてきたものことが、ぼろぼろと無に帰する。それを進歩と捉えるひともいるけれど、人間らしさが失われ、ひとりひとりの深みは埋まり、フラットになりつつもつまらない世界になるんじゃないかな、と危惧する。

そんなことを感じるのは、たいてい、石牟礼道子か宮沢賢治を手にとったとき。あのひとたちのことばはやっぱり、ぼくらが普段使うことばと、少し違う世界のことばなんだとおもう。五感で捉えられない、もう少し森とか海とか山に近い世界が、そこには広がっている。

(2013/12)