あまりにも長い70年

70年前の2月1日、南太平洋の島で父親を亡くした女性。先月、はじめてその島を訪れ、会ったことのない父への追悼文を、涙ながらに読み上げました。

〝存命であれば104歳、どんなおじいちゃんになっておられたことでしょう。あなたから受けついだ命のバトンは、私、孫、そして三人のひ孫へと……ここに写真を持ってきました。見て下さい〟

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ジャーナリストと現場と、想像力について。

ジャーナリストと現場と、想像力について。

今朝の朝日新聞、オピニオン面。学生時代にボランティアをしていたジャーナリスト土井敏邦さんのインタビュー、心を突き動かされるような気持ちになった。となりの森達也の話も面白かったけれど、それは少し政治的で、土井さんの話は実践的で。

「(人々が)遠い国の人たちと、同じ人間としての痛みを感じる感性と想像力を持つことができるかどうか。(中略)だから私たちは現場へ行く。『あなたと同じ人間がこういう状況に置かれている。苦しんでいる。もしそれがあなただったら』と想像してもらう素材を人々の前に差し出すためです」

やっぱり僕たちは現場に行く必要があるんだ、受け手の想像力のために。現場で暮らす、声なき人たちの声を拾う必要があるんだ。

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聾学校のグラウンドについて

熊本県内唯一の「ろう者のための野球場」が、なくなってしまいます。熊本にある聾学校の野球場が、支援学校の建設用地に。行政側は「利用頻度が低いから」とその理由を示しています。一方でろう者の方は、野球場が「心のふるさと」だ、と言います。つまり、頻度の問題じゃなくて、アイデンティティとか、誇りの問題だということなんです。

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投票日に、思ったこと-ポスト五輪のこの国を見据えて

”ポスト五輪”のこの国がどうなっているのかを見据える想像力が、この国には決定的に欠けていると、ぼくは思う。誇れる国だとか、輝ける国だとか、そんなのはただの懐古主義だ。成長神話を脱ぎ捨て、必ず訪れる、ないしはすでに訪れている低成長の時代をどう生きるか、考え、問わないといけない時期に来ているのに。

自分の子どもや孫たちが、ポスト五輪のこの国に訪れる、ないしは訪れている緩やかな後退時代に、いかに幸せに生きられるのか。そういう想像力を持って政治に参加することが必要なのではないか。世の中が、そして経済が、永遠に成長するなんて、あり得ないんだから。「成長」とはちがうオプションを、真剣に見出すべき時期に来ていると思う。そうすれば、世の中はもう少し良くなるんだとも、思う。

もちろん、だいじなテーマは「成長」だけではない。原発の再稼働だって、集団的自衛権の行使容認に関する”閣議決定”や、秘密法など安全保障分野の議論だって。来年、必ずやってくる憲法9条の改正議論だって、歴史認識をめぐる国際的な立ち位置だって。「ポスト五輪のこの国」を想像したときに、どんな国になって欲しいか選ぶことのできる様々なテーマが、この選挙ではずいぶんと隠されていながらも、問われている。

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焼身自殺と感情の麻痺について

「君死にたもうなかれ、人を殺せと教えしや」。新宿の焼身自殺。一部報道によれば、男性は与謝野晶子の詩の一説を引用してから自らに火を放ったというけれども、いったい何が彼をそこまでにさせたのか。集団的自衛権についての批判をするがために焼身自殺を試みたっていう事実、チベット問題に関連する焼身にも通ずるものがあるのでは。真剣に考えないといけない、危機だ。

「日本はそんなことをしなくても意見を言える。だから、チベットとはちがう」という論調も展開されているけれども、決してそうではないと思う。一個人がおおきな声を出してもまったく届かないシステムが、この国で当たり前になりつつあることに、気がつかないといけない。そして、どうにかして声を上げないといけない「もどかしい」実情が、集団的自衛件の問題には付随していることにも、気がつかないといけない。

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原爆症裁判と自分

原爆症とか被爆者っていうのは、どことなくもう「歴史」なのかなと思っていました。69年も前の話だし、「はだしのゲン」で描かれているような人たちっていうのは、まったく自分と出会うことはないんだろうなあと。出会っても、テレビとか、教科書のなかだけだと。もちろん、原爆はだめだとか、核廃絶だとか、そういうことは思っていました。それとこれとは、ちょっとばかり違う感覚です。
このあいだ、熊本で原爆症の認定をいちど却下された人たちが、やっぱり認めてほしいと求める訴訟が、ありました。そこで僕ははじめて、被爆者の人と出会い、話しました。歴史じゃあなかった、現実なんだと、痛感させられました。自分の無知さを、想像力のなさを、恥じました。

映画「子宮に沈める」と、問題の一般化について

映画「子宮に沈める」を見た。

大阪であった、ネグレクトによる二児餓死事件をモチーフにした映画。

目の前のスクリーンの中で、ただただ過ぎていく時間。そして、ただただ、募る無力感。子どもたちを救えるなら救いたい。そんな思いに駆られても、何もできない。同じような気持ちを抱いているのか、時たま他の観客の嗚咽が、館内に響いていた。

なぜあの事件は防げなかったのか。なぜ子どもたちは餓死したのか。

緒方監督は「母親だけが悪いわけではない、そう思ってつくった映画」と、トークショーで話していた。だからなのか、事件をそのまま描いた作品ではなかった。死体遺棄罪で懲役30年となった母親は、どことなく、一般化された女性に変わっていたし、映画の最後は現実より、残酷だったようにも思う。

希薄化した地域のコミュニティや人と人とのつながり、心のワーキングプア。そんな問題が見え隠れする、良作。自分が何ができるかと言えば、親になったら、絶対に子どもをこんな目に遭わせたくない、そんな単純なことしか見いだすことができなかったけれども。

男性と女性では、また見る視点が違うのだろうなあ。

最近はハンナ・アーレント、少女は自転車に乗って、ある精肉店のはなしと、良い映画に毎週のように触れられて、しあわせなのだけれども。ハンナ~はともかく、少女は~やある精肉店の~、そしてこの子宮に沈むは、「社会問題の一般化」という手法面で、共通点があるのかな、と感じた。

イスラームに対するステレオタイプや部落差別問題、そしてネグレクト・児童虐待。そんなさまざまな問題を、一般的な家庭で生きる人たちのストーリーに落とし込める手法。受け手側は、あまりにも一般化されている「おおきな問題」に対して、最初は「思っていたものと違う」という違和感や拒否感を覚えるかもしれない。

それでも、映画を見ているうちに、もしくは見終わってたばこでも吸っている間に、「ああ、そういう問題って言うのは、当たり前の延長にあるんだ」と、おおきな問題が身近であるように、考え直すことができる。「自分に関係ない問題ではないし、普遍的なんだ」と、昇華させることができる。

だからこそ、一般化には、意味がある。伝えたいと思うことを声高に叫ぶよりも、心に染み渡るように、ゆっくりと伝わる。そんな伝え方というのはすばらしいと思うし、自分も、そんな伝え方をできるようになりたいな、と思った。もちろん文章や、写真で。

http://sunkintothewomb.paranoidkitchen.com/

イラク戦争から10年。

イラク戦争から10年。

ヨルダンでイラク難民に出会ったり、高遠菜穂子さん と活動したぼくには、この10年の節目に何が出来るんだろうと考えてみて。いまの仕事柄、「伝える」ことが自分がいちばんできることだなあと結論づけてみて。そうして、けっこうな想いを込めて、自分の働く新聞会社で、記事を書きました。

もうイラク戦争から10年も経ってしまったんだと思ういっぽうで、まだ10年しか経っていないんですよね。

ぼくらにとっては当たり前のように過ぎていった10年間だったけれども、イラクの人たちや、戦争に巻き込まれた人たちにとってみれば、悲しくて、辛くて、どうしようもない気持ちが積み重なった10年間だったはず。
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