おじいさんの語る、戦争のリアル 

こぼれ話。きょうは、神戸空襲を生き延びたおじいさんに会ってきました。

空襲後、市内に墜落したB29の機体には、等身大の女性のヌードがペイントされていたそうです。町の男たちは被災直後にも関わらず、それを見ようと、わらわらと残骸に集まっていたとか。

「兵隊さんが焦げたトタンでヌードを隠すんやけど、風でしょっちゅう取れてな。みんなで『見えた!』『見えた!』ってやってたわ

豪快に笑うおじいさん。見に行ったのは墜落の3日後だったけれども、死んだ米兵の遺体はそのまま。遺体に石を投げたり、持ち物を盗んだりしていた人もいたとか。笑い話とのギャップがこれまた、リアル。

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左利きについて

テレビでおいしそうな食べ物を撮るカット。「箸あげ」と呼ぶらしいが、「箸は右が常識的」だから、左で箸を持ってはいけないらしい。テレビ局ではたらく友だちから聞いた。なんだか、左利きの自分としては解せない。常識的なものじゃないと映像にしちゃいけないのだろうか、左で箸を持つことは常識的ではないのだろうか。違和感を覚える。

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自分の言葉

(学生団体S.A.L.のブログから転載)

『ミツバチの羽音と地球の回転』をみた。山口県のちいさな離島「祝島」で、上関原子力発電所の新設に反対する人々を写したドキュメンタリー映画だ。劇中「わしらの生活がかかってるんじゃ」「わしらの23年間を、返せ」と全力で叫んでいるおじいちゃんおばあちゃんの姿を見て、「ぼくには原発のどうこうを語る権利なんてないんだな」と自分を責めた。なぜならぼくは、遠く離れた原子力発電所で生み出された電気をずっと存分に使いながら、3月12日の水素爆発でちょっとばかり身震いをしたに過ぎないからだ。おじいちゃんおばあちゃんのように、「自分自身の言葉」でモノを言うことなんてできないからだ。ぼくは自分に脅威が及ばなければいいと心のどこかで思っているだろうし、3月12日までは日本のどこにいくつ原子力発電所があるかなんて気にしたことすらなかった。これは都市生活者の原罪なのか。

*

同じ日に、東京都写真美術館でやっていた『ジョセフ・クーデルカ プラハ1968』をみた。プラハの春の終盤、ワルシャワ条約機構群がプラハを占領した最初の7日間の様子を撮影したジョセフ・クーデルカの写真を集めた素晴らしい展示だ。モノクロで繊細な美しい写真からひとびとの悲しみや心持ちがはっきりと伝わってくる。ある写真の中のプラハ市民は拳を高く手にあげながら、ソ連軍の戦車に向かって叫び声をあげていた。写真だから何も聞こえないはずなのに、何かが聞こえてくる。ああ、この声も祝島のおじいちゃんおばあちゃんと同じような「自分の言葉」なんだな、と思った。本気で叫んだ、本音の言葉だと。

*

そんな『ミツバチの羽音と地球の回転』と『ジョセフ・クーデルカ プラハ1968』は両方とも、ひとびとの無力さとぼく自身の傍観者たる立場を痛感させられるものだった。どんなにひとびとが立ち上がって自分の言葉で叫んでも、上関原子力発電所は建設が進み、プラハの春は終わった。そしてぼくはいつもそんな状況の傍観者でしかなかった。自分の言葉を持たないゆえに、だ。でもぼくは、いつかそんな傍観者たる自分を捨て、自分の言葉で問題を語ることでひとびとの支えになりたいと強く感じている。ひとびとの言葉が決して無力でないことを、ひとびとの言葉が世界を変えていくことを、自分の言葉で証明したい。

*

だからぼくは現場に行く。見て・聞いて・感じることで、単なるハッタリでも机上の空論でもない自分の「言葉」を導きだすことができると考えているからだ。現場に行って問題を自分の経験に昇華し、それを言葉にする。そして、自分の言葉を腹の底から「叫ぶ」。自分で動かない限り、自分の言葉を持つことなんてできないのだ。「書を捨てよ町へ出よう」という言葉にあるとおり、他人の言葉を読み耽るだけではなく、自分で自分の言葉を創りだそう。そのために、動き出そう。そうやってぼくは、少し重い腰の自分にいつも言い聞かせる。

*

この夏、ぼくは祝島に行く。原子力発電所問題を、少しでも自分の言葉にするために。「権利がない」で終わらせないために。いつかその言葉で、苦しむひとびとを助けるために。

文責:はたちこうた

●参考
ミツバチの羽音と地球の回転 http://888earth.net/index.html
ジョセフ・クーデルカ プラハ1968 http://www.syabi.com/contents/exhibition/index-1353.html

「あの人は凄い」という簡単な一言について

ぼくは最近誰かを「凄い」と言い切ることに、やけに違和感を感じている。特に意識せずに言うことが多々あるからだ。だからぼくは、「あの人は凄い」という簡単な一言を考える。誰かを凄いと決めつけることは果たして、いいことなのか。

誰かを凄いとすること、それはその人を自分と違う立場にあると決定付けることになる。つまり、「あの人は凄いから」と決め付けることはある種自分に対しての諦めを生み出していて、それに甘んじる機会を無意識に作り上げているのではないか、ということだ。自分がやらないこと・できないことを正当化するための免罪符になってしまっているのではないか。

それに加えて、誰かを凄いと言い切ることは、その人がしてきた努力などを否定することにはならないか。「凄い」から「何か」できるという等式は本来成り立たないはずだ。なぜなら「何か」を成し遂げるためには、見えない努力の積み重ねがたくさんあるから。「凄い」の一言でその人に対する評価をまとめることは、その人の見えない努力をすべて無視し、なかったことかのように集約させてしまってはないだろうか。

諦めを正当化していて自虐的で、さらには相手の努力を暗に否定している。そんな隠れた意味合いが「あの人は凄い」というよく言う一言に含まれているのかもしれない。ぼくはそんなことを感じた。

簡単な意味のようで、複雑さを孕んだな単純な言葉こそ、しっかりと自分の中で咀嚼して吐き出していく必要があるのだろう。言葉をしっかりと意識して使うことの重要さに、ぼくは改めて気付かされた。

Focus on Myself

この9月に、ヨルダンでイラク難民とパレスチナ難民の子どもたちにインスタント・カメラを配ることになった。ぼくが大学1年生のときに奥田綾香と一緒に生み出した、この「Focus on myself」というプロジェクト。ぼくたちはそのプロジェクトの一環として、いままでカンボジア・日本・インド・チベットの100人以上の子どもたちにカメラを配ってきた。このプロジェクトはぼくの大学生活そのものになりつつあるし、これからもずっとずっと何らかの形で関わっていきたいプロジェクトでもある。

そんなFocus on myselfに対して、ここにひとつ「大きな問い」がある。

ぼくたちは、子どもたちにカメラを渡して何がしたいのか。子どもたちに「たいせつなもの」「つらいこと」「自分の国の紹介」を撮ってもらうことで、何をしたいのか。

この問いに対して、ぼくが思う答えはまずひとつ「自分の視野を広げていきたい」ということだ。そして、その視野の拡大を自分だけではなく、他者にも共有したいということ。さらには子どもたち自身にも、共有したいということである。このプロジェクトをはじめたうちから、ぼくはずっとこの3つを自分の中心に置いてきたし、それはいまでも変わっていない。このプロジェクトがそもそもは単純な好奇心の延長であることに、間違いはないのだ。

じゃあ、ぼくたちはこれからこのプロジェクトをどうしていきたいのか。

正直この点に関しては、ぼく個人がとやかく言うことではないだろう。でもぼくとして思うことは、もっともっとたくさんの子どもたちの写真を見たい。見せたい。広げたい。できることならば、世界の国すべての子どもたちの写真を集めたい。そして見たい。見せたい。広げたい。それだけだ。

「え、そんなもんなんだ」と感じる人も多いと思うけれども、そんなもんで逆に何がダメなんだ、とぼくは思う。ぼくはこのプロジェクトにおけるだいじなところが「子どもたちにカメラを渡す」という行為にあると考えていない。

ぼくが思っている、このプロジェクトのだいじなところ。それは、ぼくたちが頑張って集めてきた何千枚の写真たちから、玉石混交の「要素」を汲みとっていくこと。そしてそれを整理して、考えて考えぬいて、ひとつの「形」にまとめていくことだ。これこそが、このプロジェクトにおいて一番大切で、かつ忘れてはいけない根幹の部分なんじゃないだろうか。なぜなら、この一連の「作業」をしっかりと進めれば、ぼくたちは子どもたちの心情や本音、もしくは世界の現実や真実を見出していくことができると信じているからだ。

実際に3年間このプロジェクトを続けてきたぼく自身は、そんな一連の作業を繰り返してきて、少しだけれども「形」を見出すことができたと思う。心情や本音や現実や真実を、見出すことができたと思う。それはたとえば、カンボジアの子どもたちの写真から見出した「我慢している子どもたち」や、チベットの子どもたちの写真から気がついた「民族アイデンティティの変容」。インドの子どもたちの写真からの「独特の多様性」や、日本の子どもたちの写真からの「コミュニティの希薄化」などである。

これらを見出すのは簡単な作業ではなかった。しかし、つまらない作業でもなかった。見出すことができた「形」はどれも些細なことばかりだが、これらは確実にこのプロジェクトそのものに意味を加えてくれたに違いないだろう。

さらにぼくは、こうやって見出してきた「形」をどうにか発信しようと心がけてきた。いろんな人に、いろんなことを新しく「見出してもらおう」と心がけてきた。なぜならそのふたつの部分が、このプロジェクトにおいて一番だいじなところだから。形を見出すことですら難しい作業なのだから、それらを発信しようと、もしくは自発的に見出してもらおうとすることはとても難しい。でも、そこで諦めてはいけない。諦めここままでいたら、ぼくたちは単なる「子どもたちのカメラを運ぶ脇役」に過ぎない存在になり得る。実際にそうではなくても、そう見えてしまう。

「子どもたちが主役」であるこのプロジェクトにおいて、ぼくたちが単なる「カメラを運ぶ脇役」に収まることを避けるために、ぼくたちはこのプロジェクトのもっと根本的な部分を見出す努力をして、それを発信する努力をして、さらには「見出してもらう」努力をしなくてはいけないだろう。ただ機械的に子どもたちにカメラを渡しただ粛々と写真展をしているだけじゃ、このプロジェクトは面白くない。子どもたちの写真に関して考えて見出して、それを伝えることにこそ、面白みがあり意義があるのだ。

Focus on myselfがこれからもいいプロジェクトでいてくれるために、ぼくも、もう少しだけの間そうしていきたい。そしてそれが、もっともっと大きくて素晴らしいたくさんの「形」を生み出すことを願っている。ひとりでも多くの子どもたちの写真が形を紡ぎ上げていくことを、願っている。

腕時計

腕時計なんて、そもそもどんなものも似たり寄ったりだ。色や形に多少の違いはあれども、強烈に記憶に残るものなんてほとんどない。たまにあったとしても、それはフランク・ミューラーだとかダイヤモンドがちりばめられているだとか、そういう類であることが多い。よっぽどの腕時計マニアじゃなければ、ひとつひとつの腕時計を記憶することなんかできないだろう。僕は腕時計マニアではないし、高級腕時計を持っているわけでもない。要は腕時計に無頓着なのだが、実はそんな僕にも人生で唯一忘れることのできない腕時計がある。きっともともとは何の変哲もない、数多ある普通の腕時計のひとつに過ぎなかったに違いない。しかしその腕時計が放つ不思議なオーラは僕に恐怖を与えるし、なんだか持ち主の人生が丸ごと包含されている様な重みがある。

その腕時計は今この瞬間も、ガラスケースの中にそっと置かれていて、「8時15分」を指したまま止まっている。熱線でボロボロになったベルト、爆風で曲がった時針、焦げた文字盤。腕時計は、その日の8時14分までは普通に時を刻んできた。しかし「ある瞬間」を越えてから、「その瞬間」を記憶したまま二度と動かなくなってしまったのである。持ち主は出勤途中だったのだろうか、通学途中だったのだろうか、それは誰にもわからない。しかし、「持ち主」というひとりの人間の影みたいなものが、その腕時計には少しだけ残っているようにも感じる。誰かがついさっきまでそれを身につけていて、ふと文字盤に目をやったりしているのではないか、と思わせる生温かさがある。その生温かさはなんだか不気味でもある気がするし、安心感がある気もする。

腕時計は、僕たちに想像力を与える。その瞬間に何が起こったのか、一瞬にして全てが失われ、破壊されると言う恐ろしさに気付くことが出来る想像力だ。人ひとりの人生が一瞬で終わってしまうこと、そして人ひとりがほんとうに小さい存在で、簡単に消え去ってしまうことに気付くことが出来る、想像力だ。そしてその想像力は僕らの感情に訴えかけ、怒りや悲しみを覚えるようになる。ひとつの腕時計なのに、そこまで人を動かしてしまう力を持っているのである。

腕時計なんて、そもそもどんなものも似たり寄ったりだ。でも「8時15分」と「11時2分」を指したまま止まってしまったいくつかの腕時計たちは、色や形に多少の違いはあれども、世界を変える大きな力を持っている。僕らはそれを見て、多くのことを知るし、気付くことができる。永遠に時を刻まなくなった腕時計は、永遠にその瞬間を記憶し続け、永遠に「その出来事」を物語るのである。

(2010/09)

緑色のプロレタリア

ぼくは、緑色のエプロンがトレードマークのスターバックスでアルバイトをしている。どこのスターバックスかと言えば、横浜中華街。道行く人の多くは「ここにスタバかよ」と笑う、そんな店だ。

アメリカのスターバックスが経営的に失敗してしまった理由のひとつに、店舗を過剰に拡大しすぎたことがあると言われている。どうやら中華街までに進出してしまう日本のスターバックスも同じ道を辿ろうとしているらしく、店内で閲覧できる社外秘の文書には「当社の予想シナリオ以上に事態は悪化している」と書かれていた。たしかに「ちょっと高級なカンジ」を演出するカフェとしては店舗数が多すぎるし、昨今のブランド力の低下は否めない気もする。そんな会社の危機的状況を打開すべく、日本のスターバックスでは現在進行中の計画「五カ年計画」が存在する。資本主義の恩恵にあやかった多国籍企業が旧ソ連における社会主義計画の名前を捩るのもどうかと思うが、とにかくそこにはひたすら利益追求に関することが書かれていた。社外秘なのであまり多くは語れないが。

ある日僕が店長に「求めるのは利益だけでいいのか」と聞くと、店長は「パートナー(スターバックスでは店員をこう呼ぶ)として唯一できること、お客様のことを考えることをしていく必要がある。利益はお客様に直結している」と答えた。ということは、結局お客様は利益を得るための単なる手段であり、最高の目標はひたすら利益であるということになる。

何かおかしい気もするが、だからといってスターバックスを否定するつもりはない。なぜなら僕は「自分の東京三菱UFJ銀行の口座に、毎月25日に振り込まれるいくらか」という利益が欲しいために、「お客様を思いやる」労働をしているだけだから。それはスターバックスの利益追求の理念となにも変わらないし、アルバイトなんて、所詮そんなものだろう。僕はスターバックスと言う組織のピラミッドの最底辺にいる、ただのプロレタリアなのだ。お店がどこにあろうと、アメリカのスターバックスが失敗しようと、結局僕は毎月25日を楽しみにしているだけなのである。

 

(2009/05/27)

 

大麻はなぜいけないのか?

問:大麻はなんでいけないのか、論理的に答えれる人だけ答えてください。ただし、次の事実を踏まえたうえでよろ。なお、「法律で駄目って言われてるから駄目」はただの循環論法だし、論理的ではありません。
「お母さんにテレビ見ちゃダメって言われてるから駄目なの」と言ってるちっちゃい子と一緒です。

あ、タバコに対する極度の嫌煙家にもぜひ考えてもらいたい問題です。近いものがあります。タバコのことでもいいから書いてちょ。

ちなみに大麻を吸おうよ!とか、合法化運動してえ!とかそういう意味の日記じゃなくて、少しでもみんなに多角的な視点を持ってもらおうと思い書きます。僕自身はちなみに違法なところで大麻を吸ったことはありません。そういう話をしたいわけじゃないです。

ぜひ最後まできっちり読んでください。バイアスとかそういう話。

参考文献は「大麻ヒステリー 思考停止になる日本人 武田邦彦著 2009年 光文社新書」

★事実

①世界保健機関(WHO)の調査による比較結果(1963年報告)
(1)大麻の精神的依存性はアルコール、タバコよりも少ない
(2)タバコおよび大麻の身体的依存性はない

②アメリカ国立薬物乱用研究所による比較(1994年)
(1)大麻の依存性=1 カフェイン=2 アルコール=3 ニコチン=6
(2)大麻の禁断性=1 カフェイン=2 アルコール=6 ニコチン=4
(3)大麻の切望感=2 カフェイン=1 アルコール=4 ニコチン=3
(4)大麻の陶酔性=3 カフェイン=1 アルコール=6 ニコチン=2

③WHOの調査結果(1970年報告)
・大麻がきっかけになって、ヘロインなどの麻薬につながることはない

これはれっきとした事実です。んなのうそだろとか言って論破しようとする人は資料を自分で探して読んでください。

★事実ではないが事実だろうと想定されるもの

①各国で2000年前から大麻が栽培されているにも関わらず、嗜好品となることはほとんどなかったことから言えるのは、”嗜好品として”の機能性がアルコールやニコチン、カフェインに比べて少なかったためではないか

②禁止されているものゆえに、手を出したい人間が増える。暴力団など
が資金源にしている可能性がある

③アルコールは世界人類のほとんどが手を出す嗜好品である。毒性は大麻やニコチンよりも強いが、多数が簡単に得る”麻薬”であるがゆえに禁止はしないのではないだろうか。

★余談

①余談だけど、タバコの副流煙の毒性データは副流煙が出た瞬間に計測してます。次の瞬間300倍くらいに膨らみます。気体は拡散します。もちろん吸う本人には害はあるけど、それはまあアルコールも一緒ですよね。周りの人に害がない!と言っているわけではありません。あしからず。

②WHOとかそういうとこでは、アルコールやニコチン、カフェインも麻薬として分類されてます。みんな麻薬だって認識持ってないのは「みんながやるからそれでいい」ってことだよね。みんな麻薬常用者なんだぜ。

③いまのところ、俺が「タバコを吸いながら運転しても事故はしないけど、お酒を飲んで運転したら人を殺す可能性がある。お酒は酩酊状態になり、犯罪を助長することはみんな充分認識してる。でもお酒は悪くなくて、タバコは悪いのはなんで?」っていう命題にも論理的に答えてくれた人はいません。お酒は肝臓を悪くします。ガンにもつながります。なんで駄目じゃないの?分酒とかそういうのないの?

③に関しては俺のぼやき。結局酒は多数派だからやめさせれないってのはアメリカの禁酒法が証明してるよね。毒性が一番強いお酒OKでタバコなど他駄目っていうのは本当マイノリティを優先した考えだと思う。俺が喫煙者だからだけど。俺はちなみにどっちも好き。

さてさて

結局俺がこの日記で何が言いたいのかって、結局俺らは小さい頃とかから植えつけられたバイアス。マスコミ、政府などのバイアスに完全に縛られているんだよなあってこと。「大麻=やばい」っていうのは植えつけられてきた習慣性のバイアスなんですよね。お酒、タバコの方がよっぽどやばいのに。歴史がそれを証明してる。

でもみんなはそれに気づけない。俺も最近まで気付かなかった。それが怖い。結局上からのバイアスに応じる家畜みたいになってる。

大麻に関してじゃなく、いろんな世の中のことに対して。上からのバイアスがどれだけ身にしみついてるのか。そしてもう少し多角的に世の中を見る必要があるんだよなあってことを、みんなにも気付いてもらいたいです。

あ、これは俺のぼやきだけど
大麻は駄目って言われてるから最悪な麻薬で、吸ったやつは死ねとか、タバコの副流煙はまじ体に悪いからタバコ廃絶しろっていってる人たちは、すごい多角的に物事を見れていないんじゃないでしょうか。

タバコに特化して言えば、まあ俺が喫煙者だから言えることなんだけど、確かに害は少なくともあります。だからマナーは守る必要がある。当たり前のことですね。でも、余りにも一辺倒に「害があるからやめろ」っていってくる人は多角的に見れてないと思う。

だってそうでしょ?一個のソースから与えられた情報をもとにそういう意見を言っていることになる。

もっと多角的に。バイアスを取り払って物事を見て行こうよ。

ちなみにどんな嗜好品にせよ節度を持つべき、っていう温和な意見はよくもらいます。その通りだと俺も思います。そうするとお酒もたばこも大麻もやめさせる必要があるとは思えません。俺の意見はそういうもの。全部いいとおもう。個人の問題だよね。

そう。タバコはマナーを持って吸いましょう。嫌がる人の前で煙をもくもくさせるのはやめましょう。お互い様なんだし。

さて、ここまで来た上で、大麻もなんで禁止されているのか論理的に考えてください。タバコよりも、お酒よりも害が無い嗜好品なのになんでだろうか。どうやらオリエンタリズムとかが見え隠れしているらしいけど、むずかしいね。

誰か答えれる人、論理的になぜ禁止か答えてほしいです。
論理的に反論できるものがあれば反論します!!タバコ、酒に関しても可。どしどし募集中。

※俺はこの日記を書く上で、双方の意見を結構比較してみました。タバコに関しても結構日常的に調べてます。そこそこ多角的に判断したうえで出た疑問とみんなへ知らせたかった気持ちで書きました。決して違法のなか大麻吸おうぜとかそういう気持ちで書いたものではないので。

(2009/10/17)

プロジェクトを終えて

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自分が主催していた一年がかりのプロジェクトが終わりを迎えた。

あまり実感はない。

カンボジアの子どもたちと、日本の子どもたちにインスタントカメラを渡し、同じテーマで撮影した写真の対比とともに、お互いの相互理解を含めるプロジェクト。その名も「Focus on Myself.」

渋谷でのチャリティ・ライブイベント、カンボジアでの写真展、赤レンガ倉庫での写真展、SFCの文化祭、そして代官山での写真展、のべ3000人近い人たちが、このプロジェクトで撮影された写真を見た。

そしてなかには、すごい大きい心の変化を感じてくれた人もたくさんいた。

あまり実感はない。

子どもたちに、「たいせつなもの」「つらいこと」「自分の国」という3つのテーマで、自分の気持ちを再確認してもらうという意味で、自分自身を見直すきっかけになればとか、考えてた。

でもやっぱり、このプロジェクトを自分が進めてきた一番の理由は、自分が「見たい」から。

カンボジアのスラム街に住む子どもたちの視点を。
日本のふつうの小学校に通う子どもたちの視点を。
そして写っているものの違いを。

自分が、見たいから。

好奇心だよね。

子どもたちの写真は本当にきれいなものばっかりだった。

カンボジアの子どもたちの写真は、特に興味深いものがたくさんあった。俺らが直接見ることができないようなところを写した写真や、自分を撮影したり、俺らを撮ってくれたり。

「たいせつなもの」の写真は、どっちの国も一緒だった。友達や自分の持ち物、風景や家族。「つらいこと」の写真では、カンボジアの子どもたちはほとんどみんなスラムの汚水やゴミを撮ってきた。日本の子どもたちは、バラバラだった。スラムの子どもたちは、遊んでいるときはゴミなんかまったく気にしていないようだったけれども、やっぱり「何が嫌だ?」って聞かれるとそれを答えるんだね。子どもながらに、努力して隠している部分があるんだと感じた。

「自分の国の紹介」は、やっぱりこれもどちらも一緒だった。伝統的なものだとか、建築物だとか、植物だった。ちなみに一番印象に残っているのが、カンボジアの子どもが撮った写真。俺らが写っていた。

「こうやっていろんな国の人が遊びに来てくれるのは、カンボジアの、スラムに住んでいる私たちだけの特権でしょ」と、その子は言っていた。

”支援される側にいるからこそ”、いろんな国の人たちと関われる。そういう立場を、その子は認識していた。

すごいや。

日本の子どもも、カンボジアの子どもも、視点はまっすぐで、正直で、きれいだった。

どっちの国の子にも、鋭い子も、笑う子も、何も言わない子も、ちょっと頭の回転が遅い子も、いた。

子どもたちに国なんか関係ない。

よく「途上国の子どもたちの笑顔はなんて素敵なんでしょう。日本の子どもたちの笑顔はないのか!」とかいう言葉を言う人も多いけど、そんなのまるっきりうそだとおもう。

どっちの子どもたちも、素敵です。

プロジェクトに参加した子どもたち自身の心に、変化は残せただろうか。これが一番の目標だったし、一番気になる。
日本の子どもたちは、カンボジアの子どもたちの写真を見て、ビデオレターを送って、なんかしらのポジティブな変化を自分に持つことができただろうか。
カンボジアの子どもたちは、写真の自己表現の楽しさを知ることができただろうか。日本の子どもたちという、遠くて近い存在を感じることができただろうか。そして、日本のプラスの部分だけではない、違う部分も学ぶことができただろうか。

写真を見た3000人は、何か変わっただろうか。

知りたいなあ。

好奇心だよね。

なにはともあれ、無事にプロジェクトが終わって何より。

もっといろんな国の子どもたちの自分自身を、見て行きたい。

ライフワークにしようか?

↓プロジェクトを行ったカンボジアのバサックスラム。にまいめは、カメラを持ってはしゃぐ子どもたち。
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(2010/11/06)

たばこについて(かきとちゅう)

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①自分がたばこをはじめたきっかけ
先輩に勧められたから。そして親友が、吸っていたから、そいつと一緒んいるときは吸っていた。ただしそこからどんどんはじめて行ったのはなぜだろう。

(1)かっこつけ
たばこ=おとな、かっこよい という潜在的なイメージの具現化。ちょっと先を行っているんだぜ、という粋がった考え。

(2)反抗心
親だとか、社会だとか、そういうのに対するレジスタンス的な精神。ヤンキーが社会へ刃向かって暴走するのと同じ。未成年なのに法を犯して吸っちゃってるぜ!っていうそれだけのため。

(3)あこがれ
ヘミングウェイとか、村上春樹の小説の主人公はみんなたばこをかっこよく吸っている。あとは映画も影響が大きいと思う。いろんな映画の要所要所でたばこはクールで、かつ妖しい、きれいさを放っていた。コーヒーアンドシガレッツって映画の力も大きいかもね。
とにかく、そんな類の小説や映画が好きだった自分は、たばこにあこがれた。

②たばこを吸ってよかったところ
(1)静止した時間の確保

(2)時間と空間に対する自分の固定

(3)ある種のアイデンティティの確立

(4)マイノリティとしての視点の確保

(5)マイノリティ・コミュニティ

③たばこを吸ってだめだたったところ
(1)ニコチン依存,たばこ依存
結局理論付けしながらたばこに頼ってる、ニコチン依存が発生してしまっている。抜けだせないかも。やれやれ。かっこつけも継続なのかな?ここはよくわからない。たばこを吸っている自分に酔っている部分があるのかもしれない。やれやれ。

(2)におい

(3)おかね

④愛煙家の言葉や一般論、確立した持論
筑紫哲也「たばこは必要悪」
チェ・ゲバラ「たばこはゲリラ戦士にとって、心の拠り所」

奥田民生 たばこのみ「誰がなんといおうとも、たばこを愛してる。それはもうナイスな友達さ。邪魔しないでほしいな、わずかの安らぎを。最近の唯一の楽しみさ。(中略)少しくらい脱ヘルシー。人間だもの、まじめばかりでもつまらないもの。近頃の世の中に、逆らおうと言いました。」
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND38297/index.html

チャットモンチー 染まるよ「あなたの好きなたばこ。あたしより好きなたばこ。」
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND70868/index.html

一般論「コーヒーとたばこの合い方は異常」
一般論Ⅱ「酒、特にウイスキーとたばこの合い方は異常」

持論「スノボー時に吸う雪山でのたばこ(メンソール)の良さは異常」

⑤いつかやめるのか
(1)本当に好きな人ができて、その人がやめてといったらやめるだろう
(2)子どもができたらやめるだろう
(3)病気になったらやめるだろう
(4)ただし上記の背反時、たばこが1000円になってもやめないだろう

 

(2010/01/22)