サナおばさんの9.11

ぼくが9月11日をどう思うかを聞くと、サナおばさんはゆっくりと、そして流暢な英語で話しはじめた。

「同時多発テロが起きたときわたしは、よし、アメリカが攻撃された。よくやった、と思ってしまいました」。

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サナおばさんはイラク難民の女性だ。夫はもともと大学院の教授で、彼女自身もイギリスで暮らしていた経験がある。知識層であったがために、フセイン政権崩壊後には武装勢力に連れされさられた。いま、彼女は一家でイラクからヨルダンに逃げ、アンマンで難民として暮らしている。

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「しかしわたしは考え直したんです。9月11日のその日、無垢な人々がたくさんあのビルにはいて、みんな死んでしまった。もしもわたしの家族、息子や娘が彼らと同じようにあのビルの中にいたら。そう考えると、わたしはとても悲しくなるんです。日本人も含め、多くのアラブ人も犠牲になっている。すべてのひとびとは、みんな無垢なひとびとだったののです」。

サナおばさんは一息ついて、続けた。

「だからわたしはほんとうに、彼らに申し訳ないと感じています」。

同時多発テロのことを、いちどでも「よし」と思ってしまった自分を、彼女は責めていた。「無垢な人々は、政府とは関係がないのに」。アメリカの政府は嫌いだという彼女も、アメリカのひとびとを嫌いだとは思っていないのだ。

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アメリカ政府がイラクでしてきたことを、彼女は身をもって経験してきた。だから彼女はアメリカ政府が嫌いだ。彼女のとある友人は3年前、自宅にいるところを爆撃された。粉々にされた彼女の家々から見つかったのは、たったひとつのキーホルダーだけだった。「そんなことがイラクでは何百も、それ以上も起きているんですよ」。そう語るサナおばさんの表情は、とても硬かった。

「アメリカ政府は泥棒とおなじです。豊かな国だったイラクから(二度の)戦争で、石油を奪っていったから」。

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きょう、9月11日。同時多発テロ10年目の日に、ぼくはイラク難民の家で、彼女自身の口から、彼女の「9.11」を聞いた。

「サナおばさんの9.11」は、ぼくにとっての9.11をおおきく変えた。単なるテレビの中の出来事でも、歴史上の出来事でもない「9.11」が、そこにはあった。それは彼女たちにイラク難民にとって、そしてその他のイラク人、アフガン人にとって、紛れもなく「自分の人生を変えた出来事」だったのだ。

彼女の大好きだったイラクは破壊されつくされ、彼女は自分の国を捨てざるを得なくなった。彼女が伝統的なアラブ菓子を振る舞いながら見せてくれる笑顔の裏側には、ぼくには到底理解し得ない悲しみと、悩みがあったに違いない。

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宿で出会った香港人にこの話をしたら、彼はぼくに尋ねた。「君はそういう経験をしたうえで、日本に帰ったらイラクの人たちにどうしたいの?なにができるの?」

ぼくはこの10年間、なにをして来たんだろう。そしてこのあとの10年間、ぼくにはいったいなにができるんだろう。

美しさの果ては

ドバイの夜はほんとうに煌びやかだ。高さ800mのブルジュ・ハリファを中心に延々と続くビル群。真っ直ぐに整備された片側6車線の道路、その上を颯爽と駆け抜けるドバイ・メトロ。なにもかもが緻密に計算され、デザインされたうえに成り立っている。

躍動する都市、沸騰都市、中東の中心地、世界経済の中心地。ドバイを表す美辞麗句を並べれば、それはそれはキリがない。事実、その言葉たちに相応しい様相をドバイは見せているし、ぼくらもその姿に魅了されていたことは間違いない。夜のドバイ・メトロに乗って街を見下ろせば、そこはまさに「未来都市」そのものだ。

しかしなんだか、ぼくはその「計算され尽くした未来都市」に違和感を覚えた。そこには「人間らしさ」がなかったからだ。生活感、といったほうがよいのだろうか。市場やそこに集まるひとびと、飛び交う怒鳴り声やクラクション。そんな暑苦しい、生々しい生活感。ごちゃごちゃで無秩序で、でもなんだかそこに隠れる温かみ。それが、ドバイにはない。

ぼくがインドからドバイに入ったから、余りにも大き過ぎるギャップに気持ちが追いついていなかったのかもしれない。日本にだって、そんな生活感はないかもしれない。いや、それにしてもドバイはぼくにとってやっぱり「無機質」だった。

きっとドバイは、あまりにも合理的過ぎるんだと思う。合理的過ぎるがゆえに美しい。たしかにそれは便利だし、綺麗だし、未来的だ。しかしそこで「無駄」「邪魔」「汚い」と、排除されてしまうものたちがある。ぼくはそこにこそ、ほんとうの人間らしさが隠れているのではないだろうか。

合理性を追求し過ぎるがゆえに消えてしまう、人間の繊細さや雑さや、面白さ。その分手に入る、美しさや統一性や、便利さ。どちらを生かし、どちらを殺すかはわたしたち次第だけれども、ドバイを見ていると、ぼくはちょっぴり寂しくなる。

ふとドバイの裏路地に迷い込んだとき、野良猫と出会った。そういえばドバイでは、こういう動物たちも滅多に見ることがなかった。野良猫はぼくに気がつくと、寂しそうに「にゃあ」と鳴いた。その後ろでは、ブルジュ・ハリファが独り、堂々と空に向かってそびえ立っていた。

ラダックの高地で考える、民族の多様性。

ぼくは日本人だ。それ以上でも、以下でもない。日本人であるというアイデンティティを持っている。「何ジン?」と聞かれれば間違いなく「日本人」と答える。しかしそこで「何民族なの?」と聞かれると、答えに戸惑う。チベットを訪れた際、チベット民族のおばあちゃんにそう聞かれたことがあるが、ぼくは言葉に詰まった。日本に生まれ22年間生きてくる上で、「民族」を意識する必要に迫られたことがなかったからだ。

よくよく考えてみれば、日本はアイヌや琉球などの少数「民族」と人口の大多数を占める「シャモ(アイヌ語で和人)」にわかれている。しかし、もはや現在の日本においてそれらの境界線はほとんど存在していない。日本人は「日本人」というひとつの存在にまとめあげられているのだ。

これは、明治から昭和における日本国政府の政策の「おかげ」であると言えるだろう。日本国政府による帝国主義的な政策によって、少数民族はシャモに「同化」させられた。伝統的な文化は破壊され、言葉も「国語」に統一されてしまったのだ。その「おかげ」で日本人は「日本人」になり、ぼくはわざわざ自分が何民族であるのかを問う必要もなくなった、というわけだ。

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なんでインドのラダック地方に来て、ぼくはそんなことを考えているのか。それはぼくが、インドにある民族の多様性、そしてそれぞれのアイデンティティや文化が保たれている事実に驚き、感動したからである。

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たとえばカシミールでぼくは、「I am Kashimir, but also we are happy with India.」というおじさんと出会った。彼は満面の笑みをたたえながら、カシミールがインドであることに対する素晴らしさをぼくに説いてくれた。そしてたとえばラダックでは、「I am Ladakhy, and also India.」という少年と出会った。「but I am not Tibetan.」と彼はつづけた。

そう、これがぼくの感じた多様性である。彼らはインド人であると同時に、それぞれの民族アイデンティティを持ち合わせている。インドに対するナショナル・アイデンティティよりも、自分の民族に対するエスニック・アイデンティティを上に捉えているのだ。彼らはそれぞれがウルドゥ語やらラダック語などの独自の言語を話し、イスラームとチベット仏教という独自の文化を保ち続けている。

ぼくがカシミールで泊まった「ハウスボート」のオーナーは、インド人の客とは「英語で話す」という。国籍の上ではインド人であるはずのオーナーが「インド人の客」と言うことからもまた、彼が「カシミール」というエスニック・アイデンティティをしっかりと持ち合わせている事実に気がつかされる。

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だが近年、そんな状況にも少しずつ変化が訪れている。学校において、ウルドゥ語やヒンディ語の教育に重点が置かれているというのだ。一つの公用語として、それらの言語が使われるようになっている。カシミールでも同様に、ウルドゥ語よりも英語やヒンディ語などでコミュニケーションをとる人が増えているようだ。

この変化は、インド政府が「インド人」というひとつの存在を作り上げようとしているがゆえに、訪れているのではないだろうか。インド政府は、少数民族を、大多数を占めるヒンディに同化しようとしていないだろうか。

具体的な証拠はないが、ぼくにはそう思えてならない。インド人が「インド人」であれば、国内においてヒト・モノ・カネを集めやすいし、小競り合いもなくなる。領土だって、確定する。コミュニケーションがヒンディ語や英語で統一されれば、国内のすべてが円滑化する。すべてが、インド政府にとって有利に働くのだ。いわば「国内のフラット化」である。

もちろん国内のフラット化は、インド政府だけではなく、それぞれの民族にとって有利に働く面もあるだろう。特に経済的な面で、それは強く現れるはずだ。しかし、伝統的な文化や言葉が破壊されていくことが取り返しのつかない大きな損失であるのは、アイヌや琉球の方々の尊い犠牲が証明している通りである。

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ひとりの「シャモ」としてぼくは、インド人が「インド人」にまとまって欲しくないと思う。それぞれの民族が長年築き上げてきた伝統、文化、言葉。これらは一度失われたら二度とは戻らない、とても価値のある存在だ。シャモが繰り返した罪を、こんな素晴らしい多様性に溢れたインドで繰り返して欲しくない。ぼくは自責の念を感じながら、そんなことを心から願うのだ。

カシミール、標高1800mの楽園。

カシミール地方に行く前の晩、ぼくは恐怖を感じていた。死ぬんじゃないか、もう日本には帰れないんじゃないか、そんなことをずっと考えていた。「カシミール」ということばの響きがぼくに、いまだ戦闘が絶えない紛争地帯、もしくはテロが頻発する危険地帯を連想させたからだ。砂っぽい大地にムスリムの過激派、そんなイメージがぼくの中で構築されていた。

翌朝、チベット亡命政府があるダラムサラからジープで12時間。ぼくたちは幾重にも重なる峠を越え、そしてインドでいちばん長いという2650mのトンネルを抜けて、カシミールに到達した。

ドライバーが「カシミール!」と叫んだ瞬間だった。夕陽に照らされた美しい山々と、風に波打ち銀色に輝くサフランたちが織り出す最高の景色が、ぼくたちの目の前に広がった。ぼくはほんとうに、文字通り、息を呑んだ。こんなところで戦争が起きていたなんて、にわかには信じ難い。それくらいすばらしい景色が、そこにはあったのだ。カシミールは、標高1800mの高地にある、楽園だった。ぼくは心から、そう思った。

カシミール地方

カシミール地方はイスラーム文化圏に属する。ここスリナガルにもモスクがいくつもあり、ラマダンの今は夜がくると大砲の音が街に響き渡る。「ドン」という音が聞こえたら、食事をはじめていいという合図なのだ。街中にはブルカを着た女性がたくさん歩いていて、なんだか異文化のど真ん中にいるんだな、と痛感させられる。

昨日、あるイスラーム教徒と出会った。彼の名前はシャビール。「ぼくは仏教徒が大好きだよ」と、シャビールは切り出した。なんで?とぼくが聞くと、彼は続けた。

「なぜなら、彼らは平和を愛しているからさ。もちろんそれは仏教徒だけではない。イスラーム教徒だって、キリスト教徒だって、みんな平和を愛しているんだ。平和が嫌いな人なんかいない。しかしアフガニスタンやイラクをみてくれ。アメリカやイギリスの政治家は戦争が好きなんだ。ほんとうは平和が好きなイスラーム教徒を、なんでやつらはあんなに殺すんだ」。

ぼくはそれに対して、何もいうことができなかった。少し考えてやっと出てきたセリフは、「I think so too, war is very bad.」という中学生の英作文みたいに陳腐なものだった。

なんで何もいうことができなかったのか。たぶん、テレビや本の中でしか知らない世界がこんなに近くに広がっていることに、ぼくは戸惑ってしまったんだと思う。いままで「現実」だと知らされてきて、自分の頭の中で「現実」として捉えていた世界。それは結局、映画のようにぼやっとした「非現実的なイメージ」に過ぎなかった。それを現実と思い込んでいたに、過ぎなかった。

だからぼくは戸惑ってしまった。「ほんとうにこういう考え方の人がいるんだ」。非現実だと思ってたイメージがほんとうに現実であることに対して、ある種のショックを受けてしまったのだ。

この経験はぼくにとって、イスラーム教徒に対するステレオタイプの強化になったのか、それともステレオタイプの破壊になったのか。どちらなのかはぼくにもわからない。

ただひとつ言えることは、「イスラーム」というものが自分の中で
「ほんとうの存在」になったということだ。それは映画の中の設定でも、本の中の主人公でもなんでもない、紛れもない「現実」なのだ。

ぼくはシャビールと写真を撮って、アドレスを交換した。「写真を送ってくれ。俺のホームページにアップロードして、日本とイスラームのつながりをみんなに知らせていこう」。彼は笑顔で言った。

カシミール地方、特に州都スリナガルの情勢はここ2-3年、落ち着いている。国境沿いの小競り合いはたまにあるものの、大規模な戦闘は起きていないという。しかしぼくのような悪いイメージを持った外国人は、ほとんどここを訪れない。

ダル湖に浮かぶスリナガル名物の「ハウスボート」という水上ホテルも、そこまで活気に溢れているとはいえない。ハウスボートのオーナーが言うには、最近になってやっとインド人観光客が戻りつつあるが、それでもまだまだ20年前の活気とは程遠いらしい。

「この素晴らしさを、日本人の友達に伝えてくれ。そうやってカシミールに観光客を、送ってほしいんだよ」。ぼくはオーナーに、そんなことをいわれた。

いつかこの素晴らしいカシミールが、大勢の観光客で溢れかえる日が来るのだろうか。もしその日が来るとしたら、シャビールはどんなことを考えて、出会った観光客たちに何を語るんだろうか。

そんなことを想像しながら、ぼくはいま、カシミールにいる。目の前には美しい山々と、ハウスボートが浮く美しい湖がある。そしてとても美味しいカシミールティーのシナモンの匂いが、ぼくの鼻をつんと突く。ここはほんとうに、標高1800mの楽園だ。

(学生団体S.A.L.ブログより転載)

刺激がなくても。

ぼくはいま、四度目のカンボジアにいる。「カンボジア」という響きから連想されることは、だいたい見たし、経験したし、知った気がする。奢りかも知れないけれど、ぼくはそう思ってる。

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四度目だと、道もある程度覚えるし、言葉も少しは話せるようになる。スラム街の子供たちと顔見知りになったり、市場やトゥクトゥクでの値切りもかなり上達した。

正直慣れてしまったんだと思う。街に鳴り響くクラクションにも、オールド・マーケットの生活臭にも、トゥクトゥクで味わう向かい風にも、刺激を感じなくなってしまった。でもぼくは、それを悪いことだとは思わない。なぜなら、ぼくは「刺激を得るために」カンボジアに来ているわけではないからだ。

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ぼくは「カンボジア」と仲良くなりたいと思って、カンボジアに来ている。

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大学生の国際協力といえばカンボジア。カンボジアに来れば、発展途上国を見ることができる。スラム街、ゴミ山、騒がしく汚い街がある。刺激が、たくさんある。カンボジアには、そんなイメージが潜在的に埋め込まれてしまっている気がする。ぼくはそれが、嫌だ。

なぜなら、カンボジアはアトラクションではないからだ。そこに暮らし、日々を生きていく人たちは、ぼくたちに刺激をもたらすために生きているわけではない。自分たちのために、生きている。
知りたい、見たいというのはいいけれども、それを目的にカンボジアに行くのって、なんだか上から目線なんじゃないか。ぼくはそういうジレンマを感じるのだ。だからぼくは決めた。カンボジアと、仲良くなりたいと。

友達とおなじだ。刺激を求めるために、ぼくらは新しい友達と会っているわけではない。どんどん話して遊んで飲んで、お互いを理解して、刺激とかそういうのじゃなく、阿吽の呼吸が生まれるくらいになりたいから、ぼくたちは友達と会う。四度目だから刺激がないなんて友達に言ったら、嫌われるに決まってる。会えば会うほど、相手のいいところと悪いところを知って、仲良くなることこそが、友達を作る醍醐味なのだ。

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ぼくはカンボジアに四回来て、いいところと悪いところを知った。刺激はないけれど、まだまだ気がつくこともたくさんある。まだまだ知らないところもある、知りたいところもある。奢っている自分もいる。それゆえ、まだまだカンボジアを知りたいし、まだまだカンボジアを経験したい。

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ぼくはこれからも何回も、カンボジアに来るだろう。
カンボジアと、仲良くなるために。

【学生団体S.A.L.ブログより転載】

祝島と旅立ちと

祝島、広島、京都と関西を一週間程ぶら着いていました。明日の終電で横浜に戻り、明後日から1ヶ月半ほど海外に行ってきます。

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タイから入り、カンボジア、インド、ネパール、ドバイ、ヨルダン、イスラエル、パレスチナ、トルコとユーラシアをプチ横断する予定。ネパールはビザの関係上まだ行けるか怪しいんですが、ほかは確定です。インドではチベット民族が住むラダック地方にも行くんですが、ひたすら楽しみです。

4回目のカンボジアではいつもお世話になっているNGO MAKE THE HEAVENとバサック・スラムに行って、こどもたちと遊びます。2回目のパレスチナではジェニン難民キャンプに行って、1年生のときに訪問した「Freedom Theater」に行こうと思ったのですが、イスラエル軍が最近襲撃をしたりと物騒で中止。残念だけど、しょうがない。1年のときに出会ったみんなはどうしてるのか、心配です。

ヨルダンでは高遠菜穂子さんのご協力で、イラク難民の子どもたちにカメラを渡してきます。Focus on myselfというやつです。ついにイラクの子どもたちにカメラを渡せるというのは感慨深い。ヨルダンではさらに人口の半分を占めるパレスチナ難民とも交流し、その子どもたちにもカメラを渡してきます。

さらにさらに、小学生の自分にとって衝撃だった9.11から10周年のことし、9月11日にイラク難民の若者たちと死海にいくことができるかもしれない、というのもサイコーです。言い方は悪いけど、ほんとうに楽しみです。

ああ、まじでいろいろといい経験ができそう。

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さて、ここからは祝島のはなしです。祝島についてはこの間のブログに書いたので、どんなところかわからない人は読んでみてください。

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カンボジアで贅沢する方法

08年2月。僕は生まれて初めて訪れたアンコールワットの、トイレにいた。アンコールワットの中には入っていない。腹痛がひどく、歩けなくなったからだ。発展途上国に行けば下痢になるのは当たり前と良く聞く。水が合わないだとか、食べ物が合わないだとか、理由は様々だろう。しかし、今回の腹痛は、明らかに普通ではなかった。僕は思ったのだ。お腹の中に、何かがいると。

お腹の中にいたのは、アメーバだった。病名はアメーバ赤痢。まさか自分が生きているうちに赤痢になるとは思ってもいなかった。生まれて初めての入院が、カンボジアだとも、思ってもいなかった。抗生物質を打てば治りますとか医者は笑いながら言っているけど、正直不安だった。なんたって、赤痢は一応致死率14%なのだから。赤痢の潜伏期間は、およそ5日間。5日前と言えば、ちょうどカンボジアのド田舎で井戸掘りをして、「お礼に」と、村人に採れたてのハツを勧められた日だった。あの時ハツを食わなきゃよかったなあと後悔しつつも、僕は病室に入った。

僕の不安を余所に、病室の中は素晴らしい設備で充実していた。完全個室で、バストイレ付き。大型液晶テレビもあれば、食事は中華・和食・洋食選び放題。さすが1泊11万円の、外国人観光客用の病院だ。コーラが1本30円の国でその値段だから、日本の病院より全然素晴らしい。さっきまでの不安は全て無くなった。ちょっとくらい下痢しても、手の甲が痛くても、これほど素晴らしい設備でまったりしていられるならそれで充分。たっぷりとリラックスしたおかげで、僕は一泊の入院でほぼ完治。無事帰国する事ができた。ちなみにお金は、全額保険で下りたので心配はいらない。

もしあなたがカンボジアに行った時「お金が無いけれど、ちょっとゼイタクしたい」と思ったら、ド田舎でハツを食べよう。そうすれば、素晴らしい設備の病院でラグジュアリーな体験ができる。もちろん、海外旅行保険に入るのには忘れずに。あ、あとハツは帰国ギリギリに食べてはいけない。日本で赤痢を発症すると、保健所から戦車みたいなのがやってきて、白い防護服を着た人たちに家中完全消毒されるらしい。あしからず。

(2009/5)

ほほえみ

ぼくはその日、ヒンドゥ教の聖地であるバラナシ駅1番線のホームで寝台列車を待っていた。インド-ネパール国境の近くにある町、ゴダプールに向かう列車である。時刻は午前0時過ぎ。列車は定刻から1時間以上遅れていたけれども、到着する気配はまるでない。待つこと以外にすることもないので、ぼくはベンチに座りながらぼーっと辺りの様子を眺めていた。チャイをすすっている人、新聞を読んでいる人、おしゃべりをしている人、寝ている人…。さまざまな人々が、それぞれ思い思いの時間を過ごしていた。

 

そんな人々の雑踏の中から、一歩一歩、ゆっくりとこちらに近づいてくるか弱い影が目に入ってきた。その細い、小さな影はどんどんこちらに近づいてきて、それがどうやら子どもの影であることが分かるくらいになった。ついに足が見えたその瞬間、ぼくはふとあることに勘付きその陰からとっさに視線をそらした。「物乞いが来た」、と感じたのである。

 

インドを旅するとだいたいどこの町でも物乞いに会う。子どもの物乞い、老人の物乞い、障害を抱えている方の物乞い、赤ん坊を抱きしめた女性の物乞い・・・。外国人である僕らはお金持ちと考えられているのか、常に彼らから手を差し出される。それは小さな手だったり、皺が切り刻まれた手だったり、指が無くなってしまった手だったりする。「物乞いにお金を渡すとキリがなくなるから無視をした方がいい」と言う人もいるが、それは人それぞれだろう。ぼくは出来る限りお金を渡そうと最初から決めていたし、出来る限りそうしてきた。

 

ぼくの方に近づいてきた物乞いは、やはり子どもだった。たぶん男の子だろう。子どもと言っても14歳くらいの彼は、文字通り骨と皮しかないほどやせ細っていて、げっそりとした顔つきをしていた。彼はしきりにぼくの方に手を伸ばしてきたが、そのときばかりはどうしてもお金を渡す気になれなかった。長い旅路で疲れが溜まっていたし、なかなかやってこない電車に対して苛々していたからだ。だからぼくは目を合わせず、彼を無視し続けた。

 

それでも彼はいなくなろうとはしなかった。そのまま無視をし続けようとしたが、何分かしてぼくは本当にどうしようもない気持ちになって、朝食用にと買ったクッキーを3枚、そっと彼の掌に載せた。彼は何も言わずにそれを握りしめ、そのうち1枚を口に入れた。そのときだった。彼はクッキーを味わうように噛み締めながら、ぼくの顔をじっと見つめ、ゆっくりとほほ笑んだのだ。ありがとうと言う意味なのか、おいしいと言う意味なのか、何なのかわからない。けれども、そのほほえみは確かに本物だった。少なくとも、ぼくにはそう感じたのだ。どう反応していいかわからなかったぼくは、そのほほえみに対して、小さく頷き返した。すると彼はぼくを見つめながら同じように頷き、残りのクッキーをそっとポケットにしまうと、ぼくの前からいなくなった。

 

列車が2時間遅れでやってきてベッドに寝転んだあと、ぼくはしばらく眠りに着くことが出来なかった。彼のほほえみと頷きが、なんだか心につかえたまま消えなかったからだ。あのほほえみの意味はなんだったんだろうか、あの頷きの意味はなんだったんだろうか。ぼくがしたことは本当に正しかったのだろうか、なにか他にしてあげられることはなかったのだろうか。天井に備え付けられたファンの回転音だけが妙に頭の中にこだまし、考えはどうしてもまとまりきらず、ついに答えを見つけることはできなかった。電車が次の駅に着くころには、僕は眠りに着いていた。

 

(2010/10)

 

山奥の小北京

もう空気が薄いのにも慣れた。初日はどうなるかと思っていたが、4日もいるとさすがに体も順応する様だ。ちょうど夜だったので、僕らは飯屋を探していた。「北京中路」という街のメインストリートの周りには様々な飯屋がある。大体中華料理屋だが、どれもおいしいと聞いていたのでどこでもよかった。とりあえず、一番安そうなところに入る。中国語のメニューを読んで、片言の中国語で注文をする。そしてチャイをすすりながら少し待っていると、美味しそうなチャーハンが出てくる。箸を使ってそれを掻き込むように食べながら、ふと考える。「ここはどこなんだろう」と。

僕はその時、チベットの首都ラサに滞在していた。いくつもの山を越えて辿り着くその街の高度は3700mほどで、富士山の頂上とだいたい同じくらいである。50年前までは文字通り山奥の秘境だった。車もたった1台しかなかったようなラサは、いまでは中国で1人当たりの自動車保有台数が一番多い街へと変貌した。ここ数年の発展は輝かしいものがあり、2000年以降は年率12%くらいの勢いで経済成長を続けている。漢民族の流入も著しい。「青蔵鉄道」と呼ばれる標高5000mの高地を突っ走る長距離路線が2005年に開通して以来、物資も人も金も情報も、すべてのフローが中国からやってくるようになった。

もはやラサは山奥の「小北京」と化している。近代化の波が押し寄せ、人々の生活や文化は確実に「チャイナ・ナイズド」されてしまっている。町の中でチベット語を見る機会も聞く機会もほとんどない。大体の看板が漢字で書かれているし、店員の会話もすべてが中国語だ。ジョカン寺というチベット仏教の総本山のまわりには、なぜかヒップ・ホップファッション専門店が目立つ。爆音でアメリカ人のラップが流れる横を、老いた巡礼者がマニ車を回しながら静かに通り過ぎて行く。若者たちは夜になると革のジャケットをはおり、ジーンズにコンバースのスニーカーを履き、クラブに繰り出しては飲み、踊る。CCTVを見ながらまったりとチャイを飲みおしゃべりをしているチベットの老人たちもいる。チベット僧侶の足元を見れば、ほとんどがNIKEとadidasのスニーカーだ。

チベットを支援する人たちや、チベット難民の多くはこのような状況を見て「侵略だ」と叫ぶ。もちろん中国側は「解放」だと言って相手にしない。チベットに住んでいる人たちも、不満を抱えている人々は多いと言うが、一方でそのような人たちが中国の恩恵を受けているのも間違いではない。チベットは、もはや中国抜きでは自身を存続できない様な状況に置かれているのだ。中国は自分に徹底的に依存させることで、この状況から抜け出すことができないようにしている。中国語で「西蔵」と書くチベットには、とてつもない量の天然資源を秘めているからだ。「西部の蔵」であるチベットを、中国が簡単に手放すわけがない。

ラサ近郊のとある村に訪れたとき、僕はチベット人の小学生にカメラを渡してこう言った。「チベットっぽいものを撮ってきてよ」。少しして子どもが帰ってきて、撮った写真を見せてくれた。ダライ・ラマの写真とか牛とか、チベット仏教に関連する何かなのかな、なんて思っていた。でもそこに写っていたのは、壁に描かれた大きな中国旗だった。僕はなんだかとても複雑な気持ちになった。

(2010/09)