まちについて。

 

「Here is a fuck’in conflict city.」

エルサレム旧市街にある安いレストランで食事をしていたとき、仲良くなったパレスチナ人の店員ジョンがぼくにそう言い放った。その言い方には、ものすごい悲しさと、切なさ、そして皮肉が交わっていたに思える。たしかにエルサレムの旧市街は、ぼくが今まで見た町のなかで最も混乱した、そして最も美しい町だった。

いまからおよそ2000年以上前から存在しているエルサレムの旧市街は、たった1km四方の城壁に囲まれたちいさな町だ。ユダヤ教,キリスト教,イスラム教3つの宗教の聖地であり、町のなかには4つの地区ではそれぞれ違う宗教の人々が暮らしている。キリストが死んだという聖墳墓教会から出て、スークと呼ばれる中東独特の騒がしい市場を5分歩けば、聖ムハンマドが天に上ったという岩のドームにたどり着く。ドームの真下には、ユダヤ教徒がエルサレムを開城した跡地と呼ばれている嘆きの壁が。ヨーロッパの京都と言うだけあり、多くの歴史的遺産が混在している。さまざまな時代に作られた建物たちは、さまざまな文化と宗教を吸収していて、美しい。夜に眺める、石で作り上げられた旧市街の町並みはほんとうにきれいで、まるで映画のなかに入ってしまったような気分に陥る。

その一方でエルサレムは、イスラエルとパレスチナの紛争の最前線である。イスラエルは国際的に認められていなくとも、一方的にここを首都と宣言しているし、パレスチナも未来の首都をエルサレムと宣言しているからだ。自爆テロや小さな小競り合いが絶えない。ぼくが帰国した1週間後にも、自動車テロが旧市街で起きた。最近には、岩のドームはイスラエル兵によって強制的に閉鎖され、暴動が起きた。町には常にイスラエル兵が闊歩し、パレスチナ人を監視していた。イスラエルとパレスチナの紛争は、泥沼化しているのが現状だ。これから一向によくなる気配が見られない。ジョンが言った言葉は、そんな意味も包含しているのだろう。

最終日の夜食事をしていたぼくは、ジョンに「極楽」と書いた日本のボディタオルをプレゼントした。「It means “HEAVEN”」とぼくは言った。彼は笑った。エルサレムの旧市街が、天国のような平穏に包まれる日が果たしてくるのだろうか。

(2009/10/29)

 

カトマンズの夜

9月の最初のころ、ぼくはネパールの首都、カトマンズにいた。 その日はネパールで過ごす最後の日だった。ぼくはひとりで、街の中心部の旧市街をぶらぶら歩いていた。特に意味はなかった。最後だし、空気を存分に味わっておきたかった。

街の中心部は停電していた。ネパールではヒマラヤの雪解け水が発電の要だ。だから冬が近づくと発電量が少なくなって、安定供給ができなくなると聞いた。
ぼくは道の真ん中に生えている木の下に座って、タバコに火をつけた。薄暗い中で、多くの人たちが騒がしく道を行き来していた。観光客、客引き、野菜売り、サリーを来た女性、老人、サドゥー。映画を見ているようだった。オリエンタリズムだな、とぼくは思った。

一人の男が近づいてきて、「どこか行く?」と訛った英語でぼくに話しかけてきた。
「ストゥーパ、ヒンドゥの寺、チベット仏教寺院、どこでも連れて行くよ」
「今日が最終日だからいいよ」
ぼくは答えた。しかし、男はあきらめず続けた。
「ハッパ?オンナ?なんでもあるよ」
「いらない」
「じゃあタバコ、ちょうだい」

ぼくはタバコをあげた。ネパールのタバコは何か、ネパールの味がする。客引きの男とは特に何も会話はなかった。通りは相変わらずざわざわとしていた。すぐにまた一人、男が近づいてきた。客引きが多いのにはうんざりだなと僕は思った。もう一人の男は近づいてきて、タバコをちょうだいという仕草をした。ぼくはタバコを渡し、火をつけてあげた。なんだかぼくが煮え切らない気持ちでいると、男は訛った英語で言った。
「日本人かい?」

*

「この木には、ヒンドゥー教の神様が宿っている。だから切られないで、こんなところに生えているんだ」

ぼくにそう教えてくれた彼は、客引きではなかった。純粋に、ただ話をしようと、僕のところに来たらしい。岩しか無いヒマラヤのふもとにある貧乏な村で生まれて、若い時にカトマンズにやってきた彼は、僕の父親と同じ年齢だった。ホテルのレセプションやガイドなんかを経て、カトマンズで生計を立てているのだと言う。

「政治は難しすぎて、よくわからないんだよなあ。でも、議会のやつらは腐敗している。海外からの援助を、全部ポケットにいれてしまうんだから」

彼はタバコをふかしながら、不満げにそう言っていた。ネパールは去年民主化し、やっと選挙も始まった。しかし彼は、読み書きができないから選挙に参加できないという。
アジアで最貧国のネパールでは、まだまだ政府は未熟でうまく機能していない。情勢も不安定だし、諸外国の援助に頼りっきりになってしまっている。課題は山積みなのだ。日本はネパールへ、多くの支援をしている。「JICAは素晴らしいよ、大きな橋や、ちゃんとした道路を沢山整備してくれる」と、彼は言ってくれた。

「やっぱり援助は、大切だとおもう?」
「大切だよそれは。だからこそ、日本ももっと援助をしてほしい。テレビで見たよ。日本の首都はすごいじゃないか。こんな木じゃなくて、もっと高い建物が沢山ある。日本人は頭がいいんだな。俺達とは違って、頭がいい」
それを聞いたぼくは少し恥ずかしくなった。日本はそんなに素晴らしい国じゃないと思うからだ。

「そんなことはないよ。ぼくなんて、本当に自分はばかだとおもう」

*

いつの間にか、最初にぼくに話しかけた客引きはいなくなっていた。「タバコ、もう一本吸う?」と僕がタバコを渡したら、彼は「いまは吸わないで、後で吸うよ。大事にする。ありがとう」と言いながら、胸のポケットにタバコを入れた。折れないかな、とぼくは不安になった。

「家族はいるの?」
ぼくは聞いた。
「妻がいる。娘も2人いる。長女はこの間結婚して、孫ができたんだ。」
「孫かあ。じゃあ、おじいちゃんなんだ」
「そう、もう体もボロボロだしなあ。老眼だし、太ってきたし、何歳まで生きるかわからない」
「そんなことない、元気そうだよ。俺の親父と同じ年齢なのに。孫ができるって嬉しいね。いま、幸せでしょ?」
「そうだね、幸せだよ」
彼は満面の笑みで頷き、そして続けた。

「俺は、小さい幸せがあれば、それだけで充分なんだ。たくさんお金があっても、何に使えばいいかわからないだろ?」

そう言う彼の眼は、本当に幸せそうで、優しい眼だった。ぼくはゆっくり、彼に笑い返した。彼はおやすみと僕に言った。ぼくも彼に、おやすみと言った。

*

帰り道はやっぱり、色々な人でごった返していた。本当に映画見ているようだなあと、僕は思った。歩きながら、さっき彼と並んで撮った写真を見た。なんだかぼくは少し嬉しくなった。そうか、小さな幸せがあれば、それだけでいいんだ。

DSC_2350.jpg
彼とぼく。カトマンズにて。

(2009/12/09)

写真について

たとえば、あなたがカンボジアに行ったとする。
そしてスラム街で、子ども達の素晴らしい笑顔に出会ったとする。

言い忘れていたけれども、あなたの手には、高機能なコンパクト・デジタルカメラが握られているとする。

ほとんどの場合、あなたはそのカメラで、子ども達の笑顔の写真を撮るだろう。

自分が一緒に入るのか、子ども達を何人か集めるのかはわからないけども、とにかく写真を撮るだろう。

そして、あなたは子ども達に写真を見せるだろう。

あなたはそんな子ども達の笑顔の写真をたくさん撮って、帰国したら、例えばmixiやFacebookなんかのSNSにアップロードして、友達に共有するだろう。

さて、この一連の流れに、何か違和感を感じる人はいないだろうか。
当たり前すぎて、感じないかもしれない。

でも僕は、違和感を感じた。

どこに?なんで?

*

この流れは、別になんにも悪いことじゃないとは思う。

だって、その子ども達は写真を撮られて嫌な気持ちにはなっていない。カメラを持っているだけで、「撮って撮って!!」と寄ってくる子どもばっかりだ。その子たちを写真に撮ると、撮られた子どもたちは喜ぶし。

でも、僕は違和感を感じた。

*

僕が違和感を感じたのは、子ども達は写真を「撮られている」だけであるという事実に対して。

例えば撮った写真をその場で子ども達に見せてあげても、子ども達自身は一回見せてもらったらその写真を自分の手元に置いておくことはできない。思い出としての写真は残らない。それは僕らの手元にだけあって、それは僕らにとっての「思い出としての写真」になってしまう。

写真というのは、情景と一瞬を切り抜いて永久化することだ。

写真を手元に残せない子ども達にとっては、写真を撮られたことは一瞬であって、永久にならない。写真の利点が全く生かされていないのだ。言い換えれば、僕らが勝手に子ども達を撮って、勝手にそれを思い出にしているだけな気がしてしまうわけだ。

だから僕は、その行為に違和感を感じたのだ。

*

写真はコミュニケーション・ツールだ。

ただ相手を撮っているだけでは一方通行になってしまう。コミュニケーションできていない。それをしっかり、相手にとっても自分にとっても、思い出の一枚に出来ないと、写真の良さを生かせていないし、本当に自己満なんじゃないかと思ってしまう。

別に旅行先の子ども達にだけ、この話が当てはまるわけでもない。どこだって、写真はそういうものだ。

*

僕はこのことに違和感を感じてから、なんだか子ども達にカメラのレンズを向けることに戸惑いを覚えてしまった。二回目にカンボジアに行った時、僕はほとんど子ども達の写真を撮ることが出来なかった。

考えすぎと言ったらそれで終わりかもしれない。子どもたちは気にしていないかもしれない。自己満足の問題かもしれない。というか、そうだろう。

でもやっぱり、僕はこの違和感どうにか解決したかったから、今回チベットに行く前にあるものを購入した。

それは、ポータブル・プリンターだ。

デジカメとつないで、その場でシール状の写真が印刷できる、プリンターだ。

その場で写真をプリント出来れば、写真を撮って、それをプレゼントするという、「コミュニケーション」が生まれる。コミュニケーション・ツールである写真の真の良さを、生かせる。しかも、自分だけの思い出にはならない。相手にも、一瞬ではなく写真として、しっかりと手元に残る。

子ども達にも、思い出としての写真を共有することができる。子ども達の笑顔を勝手に撮るんじゃなくて、子ども達自身ともシェア出来るのだ。

買うしかないと思った。

*

僕はチベットで、それを大活用させた。チベットで実際にポータブル・プリンターを使うと、子ども達は本当に喜んでくれた。

自分が写っている写真を、恥ずかしそうに、嬉しそうに、それぞれが手にぎゅっと握って、よーく、じっくり食い入っている子どもたちを見ていると、僕もとても嬉しくなった。

そして何より、子ども達がみんな声を揃えて言ってくれる言葉に、僕は何度も感動した。凄い単純だけど、写真を撮るだけじゃ絶対に言ってもらえない言葉だった。

「トゥチェチェ(ありがとう)」。

それ聞いたとき、コミュニケーションが生まれた。違和感は消えた。
撮ってよかったと思ったし、撮るときに躊躇する事もなくなった。

*

たとえば、あなたがカンボジアに行ったとする。
そしてスラム街で、子ども達の素晴らしい笑顔に出会ったとする。

言い忘れていたけれども、あなたの手には、高機能なコンパクト・デジタルカメラが握られているとする。そして、ポータブル・プリンターもあるとする。

ほとんどの場合、あなたはそのカメラで、子ども達の笑顔の写真を撮るだろう。

自分が一緒に入るのか、子ども達を何人か集めるのかはわからないけども、とにかく写真を撮るだろう。

そして、あなたは子ども達に写真を見せるだろう。

そして、あなたは子ども達に写真を、プレゼントするだろう。

子ども達はあなたに、ありがとうと言うだろう。

CSC_0461.jpg DSC_0468.jpg
(チベットの村で、子ども達と/印刷した写真に見入る子ども達)

 

(2010/03/27)

橋の上から

人が燃えていた。ものすごい勢いで燃えていた。暗闇の中でめらめらと燃える炎は、なんだか神秘的だったし、これがひとりの人だったのかと思うと、やるせない気持ちにもなった。人が燃えるのを見るのも、その煙を吸い込むのも、生まれてはじめてだった。

僕はそのとき、ネパールの首都カトマンズにあるヒンドゥー寺院にいた。ヒンドゥー寺院の一角にある橋の上から、僕は火葬の様子を見ていた。その橋はガンジス川の上流に当たる川に架かっていて、川の岸辺では家族達が亡くなった母親の遺体を荼毘に伏していた。僕が寺院に着いた時、ちょうど火葬が始まる瞬間だった。おそらく長男であろう男性が、母親の遺体を少し高い石段の上に乗せて周りを藁で取り囲み、上から油を注いでいた。

僕らにとっては非日常的なその光景も、ネパールでは当たり前の出来事だ。ネパールのヒンドゥー教徒は亡くなるとみんな、この寺院の川辺に備え付けられているガートと呼ばれる場所で火葬され、遺灰は目の前の川に流される。それは、遺灰が川の流れに沿って聖なるガンジス川にたどり着いたとき、亡くなった人が輪廻に入って再び「生」になると言われているからだ。

僕は最初、そんな光景に出会えてラッキーだとしか考えていなかった。僕にとって赤色の服を着た遺体は、川辺と無機質な石段に対して映える色合いに過ぎなかったし、その行為自体もただの珍しいオリエンタリスティックな「景色」だとしか捉えていなかったのだ。だから特に何も気にせず、いかにも日本人の観光客と言う感じで、僕は一眼レフのシャッターを切り続けていた。しかし、喪主である息子が母親の遺体に火を付けた瞬間、もうもうと遺体から立ち上がり始めた煙を吸い込んで、僕は変な気持ちになった。これがただの景色ではなく、本当に目の前で起きている「出来事」であることに気が付いたからだ。これがとても大事な儀式であり、ここが厳格な場所であり、いまがとても大切な時間であるということを、その時はじめて理解したのだ。橋の上からただの観光客として、ただの景色にしかその光景を見ることのできなかった僕は、確実にすべてを邪魔していたに違いない。自分を恥じた僕は、一眼レフのシャッターを切るのをやめた。そして、橋の欄干にもたれながら、燃えあがる炎を静かに見つめた。

そこにはひとつの大きな悲しみが存在し、同時に大きなひとつの命が輪廻に入ろうとしていた。ひとりの一生が、ゆっくりと時間をかけて、大きな炎と煙に変化し続けていた。色合いやオリエンタリズムなんか関係の無い美しさが、そこにはあった。辺りに広がる煙が、つんと僕の鼻を刺した。

 

(2010/04/17)