九月十一日/十年前のきのう、ぼくが書いていた作文。

きのうでアフガニスタン空爆から10年。米英軍による空爆がはじまった日から、もう10年の月日が流れました。

10年前のきのう、ぼくは9.11のことと、その日からはじまったアフガニスタン空爆のことを考えながら、作文を書いていました。2001年のぼくが書いたのは、こんな作文です。この作文を書いた2001年のぼくは、まさか10年後に自分のブログがソーシャル・ネットワークに晒されるとは、夢にも見ていなかったでしょう。

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サナおばさんの9.11

ぼくが9月11日をどう思うかを聞くと、サナおばさんはゆっくりと、そして流暢な英語で話しはじめた。

「同時多発テロが起きたときわたしは、よし、アメリカが攻撃された。よくやった、と思ってしまいました」。

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サナおばさんはイラク難民の女性だ。夫はもともと大学院の教授で、彼女自身もイギリスで暮らしていた経験がある。知識層であったがために、フセイン政権崩壊後には武装勢力に連れされさられた。いま、彼女は一家でイラクからヨルダンに逃げ、アンマンで難民として暮らしている。

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「しかしわたしは考え直したんです。9月11日のその日、無垢な人々がたくさんあのビルにはいて、みんな死んでしまった。もしもわたしの家族、息子や娘が彼らと同じようにあのビルの中にいたら。そう考えると、わたしはとても悲しくなるんです。日本人も含め、多くのアラブ人も犠牲になっている。すべてのひとびとは、みんな無垢なひとびとだったののです」。

サナおばさんは一息ついて、続けた。

「だからわたしはほんとうに、彼らに申し訳ないと感じています」。

同時多発テロのことを、いちどでも「よし」と思ってしまった自分を、彼女は責めていた。「無垢な人々は、政府とは関係がないのに」。アメリカの政府は嫌いだという彼女も、アメリカのひとびとを嫌いだとは思っていないのだ。

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アメリカ政府がイラクでしてきたことを、彼女は身をもって経験してきた。だから彼女はアメリカ政府が嫌いだ。彼女のとある友人は3年前、自宅にいるところを爆撃された。粉々にされた彼女の家々から見つかったのは、たったひとつのキーホルダーだけだった。「そんなことがイラクでは何百も、それ以上も起きているんですよ」。そう語るサナおばさんの表情は、とても硬かった。

「アメリカ政府は泥棒とおなじです。豊かな国だったイラクから(二度の)戦争で、石油を奪っていったから」。

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きょう、9月11日。同時多発テロ10年目の日に、ぼくはイラク難民の家で、彼女自身の口から、彼女の「9.11」を聞いた。

「サナおばさんの9.11」は、ぼくにとっての9.11をおおきく変えた。単なるテレビの中の出来事でも、歴史上の出来事でもない「9.11」が、そこにはあった。それは彼女たちにイラク難民にとって、そしてその他のイラク人、アフガン人にとって、紛れもなく「自分の人生を変えた出来事」だったのだ。

彼女の大好きだったイラクは破壊されつくされ、彼女は自分の国を捨てざるを得なくなった。彼女が伝統的なアラブ菓子を振る舞いながら見せてくれる笑顔の裏側には、ぼくには到底理解し得ない悲しみと、悩みがあったに違いない。

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宿で出会った香港人にこの話をしたら、彼はぼくに尋ねた。「君はそういう経験をしたうえで、日本に帰ったらイラクの人たちにどうしたいの?なにができるの?」

ぼくはこの10年間、なにをして来たんだろう。そしてこのあとの10年間、ぼくにはいったいなにができるんだろう。

美しさの果ては

ドバイの夜はほんとうに煌びやかだ。高さ800mのブルジュ・ハリファを中心に延々と続くビル群。真っ直ぐに整備された片側6車線の道路、その上を颯爽と駆け抜けるドバイ・メトロ。なにもかもが緻密に計算され、デザインされたうえに成り立っている。

躍動する都市、沸騰都市、中東の中心地、世界経済の中心地。ドバイを表す美辞麗句を並べれば、それはそれはキリがない。事実、その言葉たちに相応しい様相をドバイは見せているし、ぼくらもその姿に魅了されていたことは間違いない。夜のドバイ・メトロに乗って街を見下ろせば、そこはまさに「未来都市」そのものだ。

しかしなんだか、ぼくはその「計算され尽くした未来都市」に違和感を覚えた。そこには「人間らしさ」がなかったからだ。生活感、といったほうがよいのだろうか。市場やそこに集まるひとびと、飛び交う怒鳴り声やクラクション。そんな暑苦しい、生々しい生活感。ごちゃごちゃで無秩序で、でもなんだかそこに隠れる温かみ。それが、ドバイにはない。

ぼくがインドからドバイに入ったから、余りにも大き過ぎるギャップに気持ちが追いついていなかったのかもしれない。日本にだって、そんな生活感はないかもしれない。いや、それにしてもドバイはぼくにとってやっぱり「無機質」だった。

きっとドバイは、あまりにも合理的過ぎるんだと思う。合理的過ぎるがゆえに美しい。たしかにそれは便利だし、綺麗だし、未来的だ。しかしそこで「無駄」「邪魔」「汚い」と、排除されてしまうものたちがある。ぼくはそこにこそ、ほんとうの人間らしさが隠れているのではないだろうか。

合理性を追求し過ぎるがゆえに消えてしまう、人間の繊細さや雑さや、面白さ。その分手に入る、美しさや統一性や、便利さ。どちらを生かし、どちらを殺すかはわたしたち次第だけれども、ドバイを見ていると、ぼくはちょっぴり寂しくなる。

ふとドバイの裏路地に迷い込んだとき、野良猫と出会った。そういえばドバイでは、こういう動物たちも滅多に見ることがなかった。野良猫はぼくに気がつくと、寂しそうに「にゃあ」と鳴いた。その後ろでは、ブルジュ・ハリファが独り、堂々と空に向かってそびえ立っていた。

ラダックの高地で考える、民族の多様性。

ぼくは日本人だ。それ以上でも、以下でもない。日本人であるというアイデンティティを持っている。「何ジン?」と聞かれれば間違いなく「日本人」と答える。しかしそこで「何民族なの?」と聞かれると、答えに戸惑う。チベットを訪れた際、チベット民族のおばあちゃんにそう聞かれたことがあるが、ぼくは言葉に詰まった。日本に生まれ22年間生きてくる上で、「民族」を意識する必要に迫られたことがなかったからだ。

よくよく考えてみれば、日本はアイヌや琉球などの少数「民族」と人口の大多数を占める「シャモ(アイヌ語で和人)」にわかれている。しかし、もはや現在の日本においてそれらの境界線はほとんど存在していない。日本人は「日本人」というひとつの存在にまとめあげられているのだ。

これは、明治から昭和における日本国政府の政策の「おかげ」であると言えるだろう。日本国政府による帝国主義的な政策によって、少数民族はシャモに「同化」させられた。伝統的な文化は破壊され、言葉も「国語」に統一されてしまったのだ。その「おかげ」で日本人は「日本人」になり、ぼくはわざわざ自分が何民族であるのかを問う必要もなくなった、というわけだ。

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なんでインドのラダック地方に来て、ぼくはそんなことを考えているのか。それはぼくが、インドにある民族の多様性、そしてそれぞれのアイデンティティや文化が保たれている事実に驚き、感動したからである。

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たとえばカシミールでぼくは、「I am Kashimir, but also we are happy with India.」というおじさんと出会った。彼は満面の笑みをたたえながら、カシミールがインドであることに対する素晴らしさをぼくに説いてくれた。そしてたとえばラダックでは、「I am Ladakhy, and also India.」という少年と出会った。「but I am not Tibetan.」と彼はつづけた。

そう、これがぼくの感じた多様性である。彼らはインド人であると同時に、それぞれの民族アイデンティティを持ち合わせている。インドに対するナショナル・アイデンティティよりも、自分の民族に対するエスニック・アイデンティティを上に捉えているのだ。彼らはそれぞれがウルドゥ語やらラダック語などの独自の言語を話し、イスラームとチベット仏教という独自の文化を保ち続けている。

ぼくがカシミールで泊まった「ハウスボート」のオーナーは、インド人の客とは「英語で話す」という。国籍の上ではインド人であるはずのオーナーが「インド人の客」と言うことからもまた、彼が「カシミール」というエスニック・アイデンティティをしっかりと持ち合わせている事実に気がつかされる。

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だが近年、そんな状況にも少しずつ変化が訪れている。学校において、ウルドゥ語やヒンディ語の教育に重点が置かれているというのだ。一つの公用語として、それらの言語が使われるようになっている。カシミールでも同様に、ウルドゥ語よりも英語やヒンディ語などでコミュニケーションをとる人が増えているようだ。

この変化は、インド政府が「インド人」というひとつの存在を作り上げようとしているがゆえに、訪れているのではないだろうか。インド政府は、少数民族を、大多数を占めるヒンディに同化しようとしていないだろうか。

具体的な証拠はないが、ぼくにはそう思えてならない。インド人が「インド人」であれば、国内においてヒト・モノ・カネを集めやすいし、小競り合いもなくなる。領土だって、確定する。コミュニケーションがヒンディ語や英語で統一されれば、国内のすべてが円滑化する。すべてが、インド政府にとって有利に働くのだ。いわば「国内のフラット化」である。

もちろん国内のフラット化は、インド政府だけではなく、それぞれの民族にとって有利に働く面もあるだろう。特に経済的な面で、それは強く現れるはずだ。しかし、伝統的な文化や言葉が破壊されていくことが取り返しのつかない大きな損失であるのは、アイヌや琉球の方々の尊い犠牲が証明している通りである。

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ひとりの「シャモ」としてぼくは、インド人が「インド人」にまとまって欲しくないと思う。それぞれの民族が長年築き上げてきた伝統、文化、言葉。これらは一度失われたら二度とは戻らない、とても価値のある存在だ。シャモが繰り返した罪を、こんな素晴らしい多様性に溢れたインドで繰り返して欲しくない。ぼくは自責の念を感じながら、そんなことを心から願うのだ。

カシミール、標高1800mの楽園。

カシミール地方に行く前の晩、ぼくは恐怖を感じていた。死ぬんじゃないか、もう日本には帰れないんじゃないか、そんなことをずっと考えていた。「カシミール」ということばの響きがぼくに、いまだ戦闘が絶えない紛争地帯、もしくはテロが頻発する危険地帯を連想させたからだ。砂っぽい大地にムスリムの過激派、そんなイメージがぼくの中で構築されていた。

翌朝、チベット亡命政府があるダラムサラからジープで12時間。ぼくたちは幾重にも重なる峠を越え、そしてインドでいちばん長いという2650mのトンネルを抜けて、カシミールに到達した。

ドライバーが「カシミール!」と叫んだ瞬間だった。夕陽に照らされた美しい山々と、風に波打ち銀色に輝くサフランたちが織り出す最高の景色が、ぼくたちの目の前に広がった。ぼくはほんとうに、文字通り、息を呑んだ。こんなところで戦争が起きていたなんて、にわかには信じ難い。それくらいすばらしい景色が、そこにはあったのだ。カシミールは、標高1800mの高地にある、楽園だった。ぼくは心から、そう思った。

カシミール地方

カシミール地方はイスラーム文化圏に属する。ここスリナガルにもモスクがいくつもあり、ラマダンの今は夜がくると大砲の音が街に響き渡る。「ドン」という音が聞こえたら、食事をはじめていいという合図なのだ。街中にはブルカを着た女性がたくさん歩いていて、なんだか異文化のど真ん中にいるんだな、と痛感させられる。

昨日、あるイスラーム教徒と出会った。彼の名前はシャビール。「ぼくは仏教徒が大好きだよ」と、シャビールは切り出した。なんで?とぼくが聞くと、彼は続けた。

「なぜなら、彼らは平和を愛しているからさ。もちろんそれは仏教徒だけではない。イスラーム教徒だって、キリスト教徒だって、みんな平和を愛しているんだ。平和が嫌いな人なんかいない。しかしアフガニスタンやイラクをみてくれ。アメリカやイギリスの政治家は戦争が好きなんだ。ほんとうは平和が好きなイスラーム教徒を、なんでやつらはあんなに殺すんだ」。

ぼくはそれに対して、何もいうことができなかった。少し考えてやっと出てきたセリフは、「I think so too, war is very bad.」という中学生の英作文みたいに陳腐なものだった。

なんで何もいうことができなかったのか。たぶん、テレビや本の中でしか知らない世界がこんなに近くに広がっていることに、ぼくは戸惑ってしまったんだと思う。いままで「現実」だと知らされてきて、自分の頭の中で「現実」として捉えていた世界。それは結局、映画のようにぼやっとした「非現実的なイメージ」に過ぎなかった。それを現実と思い込んでいたに、過ぎなかった。

だからぼくは戸惑ってしまった。「ほんとうにこういう考え方の人がいるんだ」。非現実だと思ってたイメージがほんとうに現実であることに対して、ある種のショックを受けてしまったのだ。

この経験はぼくにとって、イスラーム教徒に対するステレオタイプの強化になったのか、それともステレオタイプの破壊になったのか。どちらなのかはぼくにもわからない。

ただひとつ言えることは、「イスラーム」というものが自分の中で
「ほんとうの存在」になったということだ。それは映画の中の設定でも、本の中の主人公でもなんでもない、紛れもない「現実」なのだ。

ぼくはシャビールと写真を撮って、アドレスを交換した。「写真を送ってくれ。俺のホームページにアップロードして、日本とイスラームのつながりをみんなに知らせていこう」。彼は笑顔で言った。

カシミール地方、特に州都スリナガルの情勢はここ2-3年、落ち着いている。国境沿いの小競り合いはたまにあるものの、大規模な戦闘は起きていないという。しかしぼくのような悪いイメージを持った外国人は、ほとんどここを訪れない。

ダル湖に浮かぶスリナガル名物の「ハウスボート」という水上ホテルも、そこまで活気に溢れているとはいえない。ハウスボートのオーナーが言うには、最近になってやっとインド人観光客が戻りつつあるが、それでもまだまだ20年前の活気とは程遠いらしい。

「この素晴らしさを、日本人の友達に伝えてくれ。そうやってカシミールに観光客を、送ってほしいんだよ」。ぼくはオーナーに、そんなことをいわれた。

いつかこの素晴らしいカシミールが、大勢の観光客で溢れかえる日が来るのだろうか。もしその日が来るとしたら、シャビールはどんなことを考えて、出会った観光客たちに何を語るんだろうか。

そんなことを想像しながら、ぼくはいま、カシミールにいる。目の前には美しい山々と、ハウスボートが浮く美しい湖がある。そしてとても美味しいカシミールティーのシナモンの匂いが、ぼくの鼻をつんと突く。ここはほんとうに、標高1800mの楽園だ。

(学生団体S.A.L.ブログより転載)

刺激がなくても。

ぼくはいま、四度目のカンボジアにいる。「カンボジア」という響きから連想されることは、だいたい見たし、経験したし、知った気がする。奢りかも知れないけれど、ぼくはそう思ってる。

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四度目だと、道もある程度覚えるし、言葉も少しは話せるようになる。スラム街の子供たちと顔見知りになったり、市場やトゥクトゥクでの値切りもかなり上達した。

正直慣れてしまったんだと思う。街に鳴り響くクラクションにも、オールド・マーケットの生活臭にも、トゥクトゥクで味わう向かい風にも、刺激を感じなくなってしまった。でもぼくは、それを悪いことだとは思わない。なぜなら、ぼくは「刺激を得るために」カンボジアに来ているわけではないからだ。

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ぼくは「カンボジア」と仲良くなりたいと思って、カンボジアに来ている。

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大学生の国際協力といえばカンボジア。カンボジアに来れば、発展途上国を見ることができる。スラム街、ゴミ山、騒がしく汚い街がある。刺激が、たくさんある。カンボジアには、そんなイメージが潜在的に埋め込まれてしまっている気がする。ぼくはそれが、嫌だ。

なぜなら、カンボジアはアトラクションではないからだ。そこに暮らし、日々を生きていく人たちは、ぼくたちに刺激をもたらすために生きているわけではない。自分たちのために、生きている。
知りたい、見たいというのはいいけれども、それを目的にカンボジアに行くのって、なんだか上から目線なんじゃないか。ぼくはそういうジレンマを感じるのだ。だからぼくは決めた。カンボジアと、仲良くなりたいと。

友達とおなじだ。刺激を求めるために、ぼくらは新しい友達と会っているわけではない。どんどん話して遊んで飲んで、お互いを理解して、刺激とかそういうのじゃなく、阿吽の呼吸が生まれるくらいになりたいから、ぼくたちは友達と会う。四度目だから刺激がないなんて友達に言ったら、嫌われるに決まってる。会えば会うほど、相手のいいところと悪いところを知って、仲良くなることこそが、友達を作る醍醐味なのだ。

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ぼくはカンボジアに四回来て、いいところと悪いところを知った。刺激はないけれど、まだまだ気がつくこともたくさんある。まだまだ知らないところもある、知りたいところもある。奢っている自分もいる。それゆえ、まだまだカンボジアを知りたいし、まだまだカンボジアを経験したい。

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ぼくはこれからも何回も、カンボジアに来るだろう。
カンボジアと、仲良くなるために。

【学生団体S.A.L.ブログより転載】

祝島と旅立ちと

祝島、広島、京都と関西を一週間程ぶら着いていました。明日の終電で横浜に戻り、明後日から1ヶ月半ほど海外に行ってきます。

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タイから入り、カンボジア、インド、ネパール、ドバイ、ヨルダン、イスラエル、パレスチナ、トルコとユーラシアをプチ横断する予定。ネパールはビザの関係上まだ行けるか怪しいんですが、ほかは確定です。インドではチベット民族が住むラダック地方にも行くんですが、ひたすら楽しみです。

4回目のカンボジアではいつもお世話になっているNGO MAKE THE HEAVENとバサック・スラムに行って、こどもたちと遊びます。2回目のパレスチナではジェニン難民キャンプに行って、1年生のときに訪問した「Freedom Theater」に行こうと思ったのですが、イスラエル軍が最近襲撃をしたりと物騒で中止。残念だけど、しょうがない。1年のときに出会ったみんなはどうしてるのか、心配です。

ヨルダンでは高遠菜穂子さんのご協力で、イラク難民の子どもたちにカメラを渡してきます。Focus on myselfというやつです。ついにイラクの子どもたちにカメラを渡せるというのは感慨深い。ヨルダンではさらに人口の半分を占めるパレスチナ難民とも交流し、その子どもたちにもカメラを渡してきます。

さらにさらに、小学生の自分にとって衝撃だった9.11から10周年のことし、9月11日にイラク難民の若者たちと死海にいくことができるかもしれない、というのもサイコーです。言い方は悪いけど、ほんとうに楽しみです。

ああ、まじでいろいろといい経験ができそう。

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さて、ここからは祝島のはなしです。祝島についてはこの間のブログに書いたので、どんなところかわからない人は読んでみてください。

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祝島へ向かうバスの中から。原子力発電所のはなし。

夜行バスで広島に向かっています。夜行バスはなんだかロマンがあって好き。お互いに知らない人同士がおんなじバスに乗り込んで、おんなじところに向かう感じ。わくわくします。

ぼくがいま向かっているのは、祝島とい​う山口県のちいさな島。あんまり知られていないけど​、祝島の対岸2kmのところでは、中国電力が上関原発という原子力発電所を​建設しています。漁業と農業が主な産業である祝島では、20年以上前から上関原発反対運動をしていて。それ見に行こうというわけで、ぼくはいまバスに揺られているんです。

福島の一件の前から祝島の反原発運動は有名で、『ミツバチの羽音と​地球の回転』や『祝の島』のようなドキュメンタリー映画も見ました。反原発だそ​ら肯定だなんだという前に、とりあえず原発を作るところはどんな​ところなのか、そしてそこで何が起こっているのか、しっかりと見​てこようと思っています。明日,明後日はそこで過ごし、6日,7日は広島で平和記念式典や​鹿を見ます。「核」について多方面か考える4日間にしたいです。

さて。出発前、よく友達に「祝島っていう原発をつくってるとこにいく」というと​だいたいの人は祝島の存在を知りませんでした。ほとんどの人は「まだ作ってるんだ」とか「いまさら?」といっていました。そこでひとつ気にかかったことがあります。まだ、と​かいまさらっていうのは、3月11日以降の「こちら側の人たち」気持ちなんではないでしょうか、ということ。

ぼくを含めて多くの人は、3月11日まで原発なんてどうでもよか​ったはずなんです。だから何も考えなかったし、反対だなんだなんて言わなかっ​たはずなんです。ぼくらにとって原子力発電所は、いままでは単なるク​リーンな電気の供給源だった。だからぼくらはその恩恵に肖り、原​発がある場所のことなんて気に留めていませんでした。

でも3月11日、原子力発電所のリスクが自分に刃を向けた瞬間に、事実に気​づいて慌てたんです。それがぼくのいう、「こちら側の人たち」。

祝島のような原発建設地では、何十年もまえから​反対運動が行われていました。それができるのは、祝島のひとたちにとって、原子力発電所は生活​に関わるモノだから。生活を壊すモノだから。つまり、ぼくたちが無意識に許容していた原子力発電所は、そういう人たちの故郷、街を何かしらで壊していたということなんです。

それって植民地主義的で帝国主義的で、罪があるといっても過言ではない気すらします。たとえば福島のひとたちの土地を使って、のうのうと生きていたぼくたちにある、罪。

そんなことを考えていると、反原発だなんて、ぼくにいう権利はあ​るのだろうか、と思います。それこそまさに「いまさら」だから。正直なところ、原発ができようができまいが​、ぼくの生活は何も変わりがありません。残念だけどそれはほんとで。だからいま​まで気にすらしていなくて。

そういうことで、なんだか最近、ずっとモヤモヤしているんです。祝島で感じたことが、そのモヤモヤを解消してくれれば、そんな気持ちでぼくはいま、祝島に向かっています。

物見遊山で行ったところで何か解決するのか、原子力発電所問題がそれこそ「自分ゴト」になるのか。そう言われたら、否です。しかし行かないで何かを言うよりも、それはおおきく違うはず。自分たちがいままで無視し続けていた、そして興味すら持たずに生きてきた原子力発電所を知り、考え、そしてそれを生かすことのできるおおきなチャンス。それがこの祝島への旅にはあるんじゃないか、と確信を持っています。

バスは東名高速道路をまっすぐ進んでいます。がたんがたんと揺れる度に、ぼくは祝島へ近づいていきます。それはそれはおおきいモヤモヤを胸にずっしりと抱えながら、ちいさなちいさな島へと、近づいていきます。

自分の言葉

(学生団体S.A.L.のブログから転載)

『ミツバチの羽音と地球の回転』をみた。山口県のちいさな離島「祝島」で、上関原子力発電所の新設に反対する人々を写したドキュメンタリー映画だ。劇中「わしらの生活がかかってるんじゃ」「わしらの23年間を、返せ」と全力で叫んでいるおじいちゃんおばあちゃんの姿を見て、「ぼくには原発のどうこうを語る権利なんてないんだな」と自分を責めた。なぜならぼくは、遠く離れた原子力発電所で生み出された電気をずっと存分に使いながら、3月12日の水素爆発でちょっとばかり身震いをしたに過ぎないからだ。おじいちゃんおばあちゃんのように、「自分自身の言葉」でモノを言うことなんてできないからだ。ぼくは自分に脅威が及ばなければいいと心のどこかで思っているだろうし、3月12日までは日本のどこにいくつ原子力発電所があるかなんて気にしたことすらなかった。これは都市生活者の原罪なのか。

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同じ日に、東京都写真美術館でやっていた『ジョセフ・クーデルカ プラハ1968』をみた。プラハの春の終盤、ワルシャワ条約機構群がプラハを占領した最初の7日間の様子を撮影したジョセフ・クーデルカの写真を集めた素晴らしい展示だ。モノクロで繊細な美しい写真からひとびとの悲しみや心持ちがはっきりと伝わってくる。ある写真の中のプラハ市民は拳を高く手にあげながら、ソ連軍の戦車に向かって叫び声をあげていた。写真だから何も聞こえないはずなのに、何かが聞こえてくる。ああ、この声も祝島のおじいちゃんおばあちゃんと同じような「自分の言葉」なんだな、と思った。本気で叫んだ、本音の言葉だと。

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そんな『ミツバチの羽音と地球の回転』と『ジョセフ・クーデルカ プラハ1968』は両方とも、ひとびとの無力さとぼく自身の傍観者たる立場を痛感させられるものだった。どんなにひとびとが立ち上がって自分の言葉で叫んでも、上関原子力発電所は建設が進み、プラハの春は終わった。そしてぼくはいつもそんな状況の傍観者でしかなかった。自分の言葉を持たないゆえに、だ。でもぼくは、いつかそんな傍観者たる自分を捨て、自分の言葉で問題を語ることでひとびとの支えになりたいと強く感じている。ひとびとの言葉が決して無力でないことを、ひとびとの言葉が世界を変えていくことを、自分の言葉で証明したい。

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だからぼくは現場に行く。見て・聞いて・感じることで、単なるハッタリでも机上の空論でもない自分の「言葉」を導きだすことができると考えているからだ。現場に行って問題を自分の経験に昇華し、それを言葉にする。そして、自分の言葉を腹の底から「叫ぶ」。自分で動かない限り、自分の言葉を持つことなんてできないのだ。「書を捨てよ町へ出よう」という言葉にあるとおり、他人の言葉を読み耽るだけではなく、自分で自分の言葉を創りだそう。そのために、動き出そう。そうやってぼくは、少し重い腰の自分にいつも言い聞かせる。

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この夏、ぼくは祝島に行く。原子力発電所問題を、少しでも自分の言葉にするために。「権利がない」で終わらせないために。いつかその言葉で、苦しむひとびとを助けるために。

文責:はたちこうた

●参考
ミツバチの羽音と地球の回転 http://888earth.net/index.html
ジョセフ・クーデルカ プラハ1968 http://www.syabi.com/contents/exhibition/index-1353.html

ジョセフ・クーデルカ展を見て

東京都写真美術館開催中の『ジョセフ・クーデルカ プラハ1968』をみにいった。ワルシャワ条約機構軍がプラハを占領した「チェコ事件」最初の7日間の様子を撮影した気鋭の写真家、ジョセフ・クーデルカの写真を集めた展示だ。

そもそもクーデルカは、当時は名の知られていない写真家であった。自分と自分の家族の命を守るために、写真は極秘裏に西側に運ばれ「P.P.(Prague Photographer、プラハの写真家)という名前で世界に写真を発表したからだ。匿名の写真家は1969年にロバート・キャパ・ゴールドメダルを受賞したものの、彼が名前を公表する1984年まで、彼の素性を知る者はほとんど世界に存在しなかった。

プラハの春という社会主義の緩和政策、変革運動が進むチェコスロバキア。そんなチェコスロバキアに「社会主義の正当性」を守るために攻め入るソ連軍。そしてそれに抵抗するプラハ市民。彼が撮った一連の写真たちは、そんな時代の一変をしっかりと捉えている。自分たちの街が、自分たちの国が占領されていくプラハ市民たちの感情をしっかりと、そのなかのひとりの「市民」として伝えているからだろう。モノクロで繊細な美しい写真から伝わる彼らの表情が心に刺さる。展示方法が少々見にくいものの、それを圧倒する写真の素晴らしさは、クーデルカの才能といっても過言ではないのかもしれない。

ある写真の中のプラハ市民は拳を高く手にあげながら、ソ連軍の戦車に向かって叫び声をあげていた。写真だから何も聞こえないはずなのに、何かが聞こえてくる。ああ、これが心の底から叫んだひとびとの「声」なんだな、と痛感した。しかしそんな声も虚しく、プラハの春は終わり、チェコスロバキアは占領された。モノクロで伝わる彼らの心情は、想像を超えた悲しみであったに違いない。

●参考

ジョセフ・クーデルカ プラハ1968

http://www.syabi.com/contents/exhibition/index-1353.html