震災について、思ったこと。

震災はまだ終わってないんだよな、と思う。ほんとうはまだ震災という事態は継続しているんじゃないか、と。

震災っていう事象はあの瞬間から今に至るまで連綿と続いていて、ぼくたちはその「線」の一番前でこの瞬間を生きている。でもぼくたちはその線の一番前にいることに気づいていない、気づこうとしていない。

あまりにもこれからのことが不確実すぎて、ぼくたちはその事実に気づこうとしていないのか。それとも、もうとっくに連綿と続いた線が途切れていて、自分たちの力で歩き出していると思い込んでいるのか。どちらかはわからないけれども、とにかく線は途切れること無く続いているし、ぼくたちは間違いなくその先頭にいて、いまも動きつづけている。

地震が少なくなってきたから、緊急地震速報が減ったから、街も明るくなってきたから、原発もあんまり話を聞かないから、季節が変わったから、被災地も落ち着いてきたらしいから。だから震災前の「日常」に、ぼくたちは戻ることができた。そんな風にいえることが本当にあり得るのか。いや、あり得ないだろう。

これからぼくたちが出会う日常は、もしくはいまぼくたちが日常と思い込んでいる日常は、もはやいままでの「日常」ではない。その日常はあの瞬間を境に、消えて無くなってしまったモノだ。ぼくたちはそれに縋るのではなく、過去の日常に回帰することを目標とするのではなく、新しい日常を捉えなくちゃいけない、新しい日常に気がつかなくてはいけない。仮に新しい日常が、あの瞬間以前では「異常」であろうとも、それが線の一番前にいるぼくたちにとっての日常なのだから。ぼくたちは、「現実」を受け入れなくてはいけない。

もちろん、思い込みや忘却は悪いことではない。忘却をすることで、過去の日常に戻ったような気分になることはできる。そうすれば心だって休まるし、楽しくなる。でも何から何まで忘却したら、意味がない。時代そのものが動き出しているいま、ぼくたちの果たせる責務というのは忘却をすることではないのではないだろうか。

ぼくたちに果たせる責務とは、伸び続ける線の先頭で流れ行く後ろの方を見ながら、いままでに起こったひとつひとつのことを見直すこと。そして、線の先にあるだろう不確実で異常な日常に備えていくことなんじゃないか。それはきっと、いつか線が途切れたときにとても意義のあることになっていくはずだ。未来への希望に、なっていくはずだ。そのために、これからを生きていくぼくたちは、忘却をするのではなく責務を果たすために「意識」をしていかなくてはいけないのだ。

「もうダメだこれ、現実だから」。南三陸町が津波に飲み込まれる映像を冷静に撮影し続けた少女は、自分が生きた街が消えていく様子を見ながら、そうつぶやいた。ぼくたちも、そうやって現実を受け入れなくてはいけない。現実に、気がつかなくてはいけない。そして、強くならなくてはいけない。そんなふうに考えて、ぼくは自分の中にあったもやもやをやっと昇華した。

震災3ヶ月目と4日目の、夜が明ける。

 

*最後のひとことは、http://www.youtube.com/watch?v=jxng4VE8ptw 7分辺りから。