投票日に、思ったこと-ポスト五輪のこの国を見据えて

”ポスト五輪”のこの国がどうなっているのかを見据える想像力が、この国には決定的に欠けていると、ぼくは思う。誇れる国だとか、輝ける国だとか、そんなのはただの懐古主義だ。成長神話を脱ぎ捨て、必ず訪れる、ないしはすでに訪れている低成長の時代をどう生きるか、考え、問わないといけない時期に来ているのに。

自分の子どもや孫たちが、ポスト五輪のこの国に訪れる、ないしは訪れている緩やかな後退時代に、いかに幸せに生きられるのか。そういう想像力を持って政治に参加することが必要なのではないか。世の中が、そして経済が、永遠に成長するなんて、あり得ないんだから。「成長」とはちがうオプションを、真剣に見出すべき時期に来ていると思う。そうすれば、世の中はもう少し良くなるんだとも、思う。

もちろん、だいじなテーマは「成長」だけではない。原発の再稼働だって、集団的自衛権の行使容認に関する”閣議決定”や、秘密法など安全保障分野の議論だって。来年、必ずやってくる憲法9条の改正議論だって、歴史認識をめぐる国際的な立ち位置だって。「ポスト五輪のこの国」を想像したときに、どんな国になって欲しいか選ぶことのできる様々なテーマが、この選挙ではずいぶんと隠されていながらも、問われている。

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おじいさんの語る、戦争のリアル 

こぼれ話。きょうは、神戸空襲を生き延びたおじいさんに会ってきました。

空襲後、市内に墜落したB29の機体には、等身大の女性のヌードがペイントされていたそうです。町の男たちは被災直後にも関わらず、それを見ようと、わらわらと残骸に集まっていたとか。

「兵隊さんが焦げたトタンでヌードを隠すんやけど、風でしょっちゅう取れてな。みんなで『見えた!』『見えた!』ってやってたわ

豪快に笑うおじいさん。見に行ったのは墜落の3日後だったけれども、死んだ米兵の遺体はそのまま。遺体に石を投げたり、持ち物を盗んだりしていた人もいたとか。笑い話とのギャップがこれまた、リアル。

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焼身自殺と感情の麻痺について

「君死にたもうなかれ、人を殺せと教えしや」。新宿の焼身自殺。一部報道によれば、男性は与謝野晶子の詩の一説を引用してから自らに火を放ったというけれども、いったい何が彼をそこまでにさせたのか。集団的自衛権についての批判をするがために焼身自殺を試みたっていう事実、チベット問題に関連する焼身にも通ずるものがあるのでは。真剣に考えないといけない、危機だ。

「日本はそんなことをしなくても意見を言える。だから、チベットとはちがう」という論調も展開されているけれども、決してそうではないと思う。一個人がおおきな声を出してもまったく届かないシステムが、この国で当たり前になりつつあることに、気がつかないといけない。そして、どうにかして声を上げないといけない「もどかしい」実情が、集団的自衛件の問題には付随していることにも、気がつかないといけない。

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短考)子どもたちの「根っこ」

途上国の子どもたちの笑顔は、日本人や先進国のそれと比べて弾けていて、素敵だと言う言説って、どことなくノスタルジアと、屈折した優越感にまみれているだけだよなあ。日本人のちっさい子だって、最高の笑顔を見せるじゃんね。

昔やっていた、途上国や日本の子どもたちにインスタントカメラを配るプロジェクトで伝えたかったことの、ひとつはそこだった。違うようで、根っこは一緒なんだよと。しあわせとか、たいせつにしたいものとか、笑顔とか。

根っこは一緒だと伝えられれば、日本とか外国とか分け隔てなく、どこであろうとも、いろんなことに苦しんでいる人を支えたり、助けたりすることの大切さを、伝えられる気がして。つらさとか、苦しさとかって、やっぱり笑顔と同じで普遍的。それを一般化して、落とし込めるきっかけを提供したかった。

(2014/4)

原爆症裁判と自分

原爆症とか被爆者っていうのは、どことなくもう「歴史」なのかなと思っていました。69年も前の話だし、「はだしのゲン」で描かれているような人たちっていうのは、まったく自分と出会うことはないんだろうなあと。出会っても、テレビとか、教科書のなかだけだと。もちろん、原爆はだめだとか、核廃絶だとか、そういうことは思っていました。それとこれとは、ちょっとばかり違う感覚です。
このあいだ、熊本で原爆症の認定をいちど却下された人たちが、やっぱり認めてほしいと求める訴訟が、ありました。そこで僕ははじめて、被爆者の人と出会い、話しました。歴史じゃあなかった、現実なんだと、痛感させられました。自分の無知さを、想像力のなさを、恥じました。

映画「子宮に沈める」と、問題の一般化について

映画「子宮に沈める」を見た。

大阪であった、ネグレクトによる二児餓死事件をモチーフにした映画。

目の前のスクリーンの中で、ただただ過ぎていく時間。そして、ただただ、募る無力感。子どもたちを救えるなら救いたい。そんな思いに駆られても、何もできない。同じような気持ちを抱いているのか、時たま他の観客の嗚咽が、館内に響いていた。

なぜあの事件は防げなかったのか。なぜ子どもたちは餓死したのか。

緒方監督は「母親だけが悪いわけではない、そう思ってつくった映画」と、トークショーで話していた。だからなのか、事件をそのまま描いた作品ではなかった。死体遺棄罪で懲役30年となった母親は、どことなく、一般化された女性に変わっていたし、映画の最後は現実より、残酷だったようにも思う。

希薄化した地域のコミュニティや人と人とのつながり、心のワーキングプア。そんな問題が見え隠れする、良作。自分が何ができるかと言えば、親になったら、絶対に子どもをこんな目に遭わせたくない、そんな単純なことしか見いだすことができなかったけれども。

男性と女性では、また見る視点が違うのだろうなあ。

最近はハンナ・アーレント、少女は自転車に乗って、ある精肉店のはなしと、良い映画に毎週のように触れられて、しあわせなのだけれども。ハンナ~はともかく、少女は~やある精肉店の~、そしてこの子宮に沈むは、「社会問題の一般化」という手法面で、共通点があるのかな、と感じた。

イスラームに対するステレオタイプや部落差別問題、そしてネグレクト・児童虐待。そんなさまざまな問題を、一般的な家庭で生きる人たちのストーリーに落とし込める手法。受け手側は、あまりにも一般化されている「おおきな問題」に対して、最初は「思っていたものと違う」という違和感や拒否感を覚えるかもしれない。

それでも、映画を見ているうちに、もしくは見終わってたばこでも吸っている間に、「ああ、そういう問題って言うのは、当たり前の延長にあるんだ」と、おおきな問題が身近であるように、考え直すことができる。「自分に関係ない問題ではないし、普遍的なんだ」と、昇華させることができる。

だからこそ、一般化には、意味がある。伝えたいと思うことを声高に叫ぶよりも、心に染み渡るように、ゆっくりと伝わる。そんな伝え方というのはすばらしいと思うし、自分も、そんな伝え方をできるようになりたいな、と思った。もちろん文章や、写真で。

http://sunkintothewomb.paranoidkitchen.com/

短考)言論について

新聞は日々のニュースを売っているわけじゃない。その中から生み出される「言論」(ないしはその空間)を提供しているんだと思う。オピニオン、インタビュー、論文、コラム、声欄などなど。「ニュースを見るならネットでいい」。これには同意する。
単純なストレートニュースは、どのソースにしてもほとんど内容は変わらない。重要なのは、そういうストレートニュースを広げたり、複数の人が議論をしたり、識者が考え語ったりするもの。そしてそれが、多くの人たちに一斉に配信されるもの。こういう類いの「言論」って、あんまりネット上にはない。「言論」には、信頼性と共有性が必要だ。それらがしっかりと担保された「言論」が、記録性と一覧性にすぐれた紙に印刷されることに、意味はある。視角的に読みやすいようデザインされ、かつ保存性に優れている新聞のウリだ。自らがアクセスしたい「言論」以外の見地を広げるには、新聞っていうのは最も有効なツールなはずだ

新聞を読まないは、ニュースを見ないと=(イコール)にはならない。自分は興味がない、知らない、自分からは見えない「言論」を、もっともっと深いところにしまい込んでしまうことに、つながるんじゃないかと、僕はどことなく危機感を覚える。

(2014/1/3)

山あいの村のおばあちゃんがイラク戦争を語り、東大生が過疎を語る。海辺の町の若い漁師のにーちゃんが反原発を想い、市民活動家が干拓問題を解く。みんなが自分にも関係のない大きな事柄に関して、何かしらの意見を持つことが、言論だと思うんだよね。

(2014/4)