短考)子どもたちの「根っこ」

途上国の子どもたちの笑顔は、日本人や先進国のそれと比べて弾けていて、素敵だと言う言説って、どことなくノスタルジアと、屈折した優越感にまみれているだけだよなあ。日本人のちっさい子だって、最高の笑顔を見せるじゃんね。

昔やっていた、途上国や日本の子どもたちにインスタントカメラを配るプロジェクトで伝えたかったことの、ひとつはそこだった。違うようで、根っこは一緒なんだよと。しあわせとか、たいせつにしたいものとか、笑顔とか。

根っこは一緒だと伝えられれば、日本とか外国とか分け隔てなく、どこであろうとも、いろんなことに苦しんでいる人を支えたり、助けたりすることの大切さを、伝えられる気がして。つらさとか、苦しさとかって、やっぱり笑顔と同じで普遍的。それを一般化して、落とし込めるきっかけを提供したかった。

(2014/4)

原爆症裁判と自分

原爆症とか被爆者っていうのは、どことなくもう「歴史」なのかなと思っていました。69年も前の話だし、「はだしのゲン」で描かれているような人たちっていうのは、まったく自分と出会うことはないんだろうなあと。出会っても、テレビとか、教科書のなかだけだと。もちろん、原爆はだめだとか、核廃絶だとか、そういうことは思っていました。それとこれとは、ちょっとばかり違う感覚です。
このあいだ、熊本で原爆症の認定をいちど却下された人たちが、やっぱり認めてほしいと求める訴訟が、ありました。そこで僕ははじめて、被爆者の人と出会い、話しました。歴史じゃあなかった、現実なんだと、痛感させられました。自分の無知さを、想像力のなさを、恥じました。