テレビでおいしそうな食べ物を撮るカット。「箸あげ」と呼ぶらしいが、「箸は右が常識的」だから、左で箸を持ってはいけないらしい。テレビ局ではたらく友だちから聞いた。なんだか、左利きの自分としては解せない。常識的なものじゃないと映像にしちゃいけないのだろうか、左で箸を持つことは常識的ではないのだろうか。違和感を覚える。

この類の「左利き問題」については兼ねてから興味がある。世の中の大半は右利き用に創られているという話だ。自動販売機だって改札機だって、すべては右側に挿入口やお金を入れるところがある。スープを注ぐお玉も、左で持つとぼたぼたとこぼれ落ちる。電話機だって左で受話器を持つ構造になっている(右でダイヤルし、メモができるからだ)。習字の授業では「とめ」「はね」の書き方を正確にするため、ぜったいに右で書くよう無理やり強制されていた。だから習字の授業は大嫌いだったんだけど。

さて、ぼくはこういう風に世の中が右利き用に作られていることに対して、「差別だ!」「どうにかしろ!」と声高々に文句を言いたい訳じゃない。でも、ぼくがこういう話を友だちにすれば「ああ、たしかに」という反応が十中八九返ってくる。つまり、圧倒的にマジョリティである右利きの人たちは、マイノリティである左利きの視点で世の中を見ることが、なかなかできていないのだ。(繰り返しになるけれど、それが悪いとか差別だとか言いたいわけではない)。

ぼくが言いたいのは、これはきっと、右利きや左利きだけに言えた話ではないはずだ、ということ。さまざまな問題によってマイノリティになってしまっている人たちの視点は、マジョリティからは本当に「見えていない」んじゃないだろうか。努力をしても、なかなか「見えるもの」ではないんじゃないだろうか。だから、「箸あげ」のように、何が常識的で何が非常識なのか、一辺倒に判断をしてしまんじゃ、ないだろうか。

そんなのは、やっぱりおかしいし、誰かを傷つける。そうしないためにも、少しでもちいさな「視点」で世の中を見られるようになるためにも、マジョリティは、マイノリティの人たちの話に耳を傾け、本当の意味で自分の「視野を広げる」ことが大切なのだろう。そうして「ああ、たしかに」と言えればいい。それを誰かに伝えて、「ああ、たしかに」と言ってもらえればいい。自分が気がつけていなかった「視点」がいつか「みんなの視点」になれば、間違いなく、いろいろと何かが変わるはずだ。

ぼーっとしながら、そんなことを考えていた。左利きで、よかった。


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