映画「子宮に沈める」を見た。

大阪であった、ネグレクトによる二児餓死事件をモチーフにした映画。

目の前のスクリーンの中で、ただただ過ぎていく時間。そして、ただただ、募る無力感。子どもたちを救えるなら救いたい。そんな思いに駆られても、何もできない。同じような気持ちを抱いているのか、時たま他の観客の嗚咽が、館内に響いていた。

なぜあの事件は防げなかったのか。なぜ子どもたちは餓死したのか。

緒方監督は「母親だけが悪いわけではない、そう思ってつくった映画」と、トークショーで話していた。だからなのか、事件をそのまま描いた作品ではなかった。死体遺棄罪で懲役30年となった母親は、どことなく、一般化された女性に変わっていたし、映画の最後は現実より、残酷だったようにも思う。

希薄化した地域のコミュニティや人と人とのつながり、心のワーキングプア。そんな問題が見え隠れする、良作。自分が何ができるかと言えば、親になったら、絶対に子どもをこんな目に遭わせたくない、そんな単純なことしか見いだすことができなかったけれども。

男性と女性では、また見る視点が違うのだろうなあ。

最近はハンナ・アーレント、少女は自転車に乗って、ある精肉店のはなしと、良い映画に毎週のように触れられて、しあわせなのだけれども。ハンナ~はともかく、少女は~やある精肉店の~、そしてこの子宮に沈むは、「社会問題の一般化」という手法面で、共通点があるのかな、と感じた。

イスラームに対するステレオタイプや部落差別問題、そしてネグレクト・児童虐待。そんなさまざまな問題を、一般的な家庭で生きる人たちのストーリーに落とし込める手法。受け手側は、あまりにも一般化されている「おおきな問題」に対して、最初は「思っていたものと違う」という違和感や拒否感を覚えるかもしれない。

それでも、映画を見ているうちに、もしくは見終わってたばこでも吸っている間に、「ああ、そういう問題って言うのは、当たり前の延長にあるんだ」と、おおきな問題が身近であるように、考え直すことができる。「自分に関係ない問題ではないし、普遍的なんだ」と、昇華させることができる。

だからこそ、一般化には、意味がある。伝えたいと思うことを声高に叫ぶよりも、心に染み渡るように、ゆっくりと伝わる。そんな伝え方というのはすばらしいと思うし、自分も、そんな伝え方をできるようになりたいな、と思った。もちろん文章や、写真で。

http://sunkintothewomb.paranoidkitchen.com/


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