”ポスト五輪”のこの国がどうなっているのかを見据える想像力が、この国には決定的に欠けていると、ぼくは思う。誇れる国だとか、輝ける国だとか、そんなのはただの懐古主義だ。成長神話を脱ぎ捨て、必ず訪れる、ないしはすでに訪れている低成長の時代をどう生きるか、考え、問わないといけない時期に来ているのに。

自分の子どもや孫たちが、ポスト五輪のこの国に訪れる、ないしは訪れている緩やかな後退時代に、いかに幸せに生きられるのか。そういう想像力を持って政治に参加することが必要なのではないか。世の中が、そして経済が、永遠に成長するなんて、あり得ないんだから。「成長」とはちがうオプションを、真剣に見出すべき時期に来ていると思う。そうすれば、世の中はもう少し良くなるんだとも、思う。

もちろん、だいじなテーマは「成長」だけではない。原発の再稼働だって、集団的自衛権の行使容認に関する”閣議決定”や、秘密法など安全保障分野の議論だって。来年、必ずやってくる憲法9条の改正議論だって、歴史認識をめぐる国際的な立ち位置だって。「ポスト五輪のこの国」を想像したときに、どんな国になって欲しいか選ぶことのできる様々なテーマが、この選挙ではずいぶんと隠されていながらも、問われている。

でも、投票率は下がる。低投票率だと組織票の割合が高くなり、組織力に優れる与党が多くの得票を得る。根回しや個人の付き合いで動く人たちだけの選挙だ。多数を占める無党派層は政治をひっくり返すことのできるポテンシャルを持っているのに、棄権する。政治なんてカンケーない、わからない、難しい、変わらない……。そんな不満があっても、棄権という白紙委任だけはしちゃいけないのに。

そんな風にして現与党に”信任”が与えられれば、ずいぶんといろいろな面に置いて、この国は変わる。「成長」という近視眼的な張りぼての裏側で、彼らの求めてきた「強くて誇れる国」が完成する。そのとき、この国にはどんな「ポスト五輪」が待っているのだろう?

30年とか50年後に、「あの時、父さんは/じいちゃんは/母さんは/ばあちゃんは/何してたの?」と問われたときに、「あのときはしょうがなかった」「何もできなかった」「何も”しなかった”」と、言い訳しないようにできる権利が、僕たちにはあるし、それを行使すべきだ。そして、そのときに、恥ずかしくない選択をしたよと、堂々と答えられるような選択をすべきだ。

2014/12/14


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