短考)ことばについて

ことばを丹念に紡いだ本を読むと、ことばが身体に行き渡る。そうやって読書はひとを形づくるのだとおもう。考え方とか、見方とか、生き方とか、ことばを咀嚼することで、学びとることができるのだと、おもう。

そんな中で、世の中のものことがどんどん形骸化しているように感じる。年月を重ねて培われてきたものことが、ぼろぼろと無に帰する。それを進歩と捉えるひともいるけれど、人間らしさが失われ、ひとりひとりの深みは埋まり、フラットになりつつもつまらない世界になるんじゃないかな、と危惧する。

そんなことを感じるのは、たいてい、石牟礼道子か宮沢賢治を手にとったとき。あのひとたちのことばはやっぱり、ぼくらが普段使うことばと、少し違う世界のことばなんだとおもう。五感で捉えられない、もう少し森とか海とか山に近い世界が、そこには広がっている。

(2013/12)

自分の言葉

(学生団体S.A.L.のブログから転載)

『ミツバチの羽音と地球の回転』をみた。山口県のちいさな離島「祝島」で、上関原子力発電所の新設に反対する人々を写したドキュメンタリー映画だ。劇中「わしらの生活がかかってるんじゃ」「わしらの23年間を、返せ」と全力で叫んでいるおじいちゃんおばあちゃんの姿を見て、「ぼくには原発のどうこうを語る権利なんてないんだな」と自分を責めた。なぜならぼくは、遠く離れた原子力発電所で生み出された電気をずっと存分に使いながら、3月12日の水素爆発でちょっとばかり身震いをしたに過ぎないからだ。おじいちゃんおばあちゃんのように、「自分自身の言葉」でモノを言うことなんてできないからだ。ぼくは自分に脅威が及ばなければいいと心のどこかで思っているだろうし、3月12日までは日本のどこにいくつ原子力発電所があるかなんて気にしたことすらなかった。これは都市生活者の原罪なのか。

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同じ日に、東京都写真美術館でやっていた『ジョセフ・クーデルカ プラハ1968』をみた。プラハの春の終盤、ワルシャワ条約機構群がプラハを占領した最初の7日間の様子を撮影したジョセフ・クーデルカの写真を集めた素晴らしい展示だ。モノクロで繊細な美しい写真からひとびとの悲しみや心持ちがはっきりと伝わってくる。ある写真の中のプラハ市民は拳を高く手にあげながら、ソ連軍の戦車に向かって叫び声をあげていた。写真だから何も聞こえないはずなのに、何かが聞こえてくる。ああ、この声も祝島のおじいちゃんおばあちゃんと同じような「自分の言葉」なんだな、と思った。本気で叫んだ、本音の言葉だと。

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そんな『ミツバチの羽音と地球の回転』と『ジョセフ・クーデルカ プラハ1968』は両方とも、ひとびとの無力さとぼく自身の傍観者たる立場を痛感させられるものだった。どんなにひとびとが立ち上がって自分の言葉で叫んでも、上関原子力発電所は建設が進み、プラハの春は終わった。そしてぼくはいつもそんな状況の傍観者でしかなかった。自分の言葉を持たないゆえに、だ。でもぼくは、いつかそんな傍観者たる自分を捨て、自分の言葉で問題を語ることでひとびとの支えになりたいと強く感じている。ひとびとの言葉が決して無力でないことを、ひとびとの言葉が世界を変えていくことを、自分の言葉で証明したい。

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だからぼくは現場に行く。見て・聞いて・感じることで、単なるハッタリでも机上の空論でもない自分の「言葉」を導きだすことができると考えているからだ。現場に行って問題を自分の経験に昇華し、それを言葉にする。そして、自分の言葉を腹の底から「叫ぶ」。自分で動かない限り、自分の言葉を持つことなんてできないのだ。「書を捨てよ町へ出よう」という言葉にあるとおり、他人の言葉を読み耽るだけではなく、自分で自分の言葉を創りだそう。そのために、動き出そう。そうやってぼくは、少し重い腰の自分にいつも言い聞かせる。

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この夏、ぼくは祝島に行く。原子力発電所問題を、少しでも自分の言葉にするために。「権利がない」で終わらせないために。いつかその言葉で、苦しむひとびとを助けるために。

文責:はたちこうた

●参考
ミツバチの羽音と地球の回転 http://888earth.net/index.html
ジョセフ・クーデルカ プラハ1968 http://www.syabi.com/contents/exhibition/index-1353.html

「あの人は凄い」という簡単な一言について

ぼくは最近誰かを「凄い」と言い切ることに、やけに違和感を感じている。特に意識せずに言うことが多々あるからだ。だからぼくは、「あの人は凄い」という簡単な一言を考える。誰かを凄いと決めつけることは果たして、いいことなのか。

誰かを凄いとすること、それはその人を自分と違う立場にあると決定付けることになる。つまり、「あの人は凄いから」と決め付けることはある種自分に対しての諦めを生み出していて、それに甘んじる機会を無意識に作り上げているのではないか、ということだ。自分がやらないこと・できないことを正当化するための免罪符になってしまっているのではないか。

それに加えて、誰かを凄いと言い切ることは、その人がしてきた努力などを否定することにはならないか。「凄い」から「何か」できるという等式は本来成り立たないはずだ。なぜなら「何か」を成し遂げるためには、見えない努力の積み重ねがたくさんあるから。「凄い」の一言でその人に対する評価をまとめることは、その人の見えない努力をすべて無視し、なかったことかのように集約させてしまってはないだろうか。

諦めを正当化していて自虐的で、さらには相手の努力を暗に否定している。そんな隠れた意味合いが「あの人は凄い」というよく言う一言に含まれているのかもしれない。ぼくはそんなことを感じた。

簡単な意味のようで、複雑さを孕んだな単純な言葉こそ、しっかりと自分の中で咀嚼して吐き出していく必要があるのだろう。言葉をしっかりと意識して使うことの重要さに、ぼくは改めて気付かされた。

いただきますという言葉。

今日は食にまつわる話をひとつ。

皆さんは食べる前にいつも、なんといってからご飯を食べますか?

ぼくはもちろん「いただきます」と言ってから。

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ぼくらにとっては当たり前なこの「いただきます」。

実はとっても深い意味があるのを知っていますか?

いただきますという言葉は、単にその食事を作ってくれた人のためだけの言葉ではありません。

実は、いただきますという言葉の奥には

その食事ができるまでにそれに関わったすべての人たちと、

その食事のもとになっている生き物すべてを

自分たちのために「いただいているんだよ」という感謝の意味合いが込められているのです。

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たとえば唐揚げ定食ひとつとってみても、

それを作ったお母さんか、お父さんか、コックさんか、彼女か彼氏以外にも

たくさんの人がその食事にかかわっています。

それを運んだ運送業者のひと、キャベツを作った農家さん、鶏を育てた畜産農家さん、お米を育てた農家さん。

そして、かかわっているのがひとだけだとは限りません。

唐揚げ定食の主人公、唐揚げ。

ここで、ぼくらはひとつの「鳥」の「いのち」を「殺して」食べているのです。

「いただきます」という言葉には、そんなことを気付かせてくれる力があります。

ぼくらが普段忘れがちな存在を、教えてくれる言葉なんです。

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そもそもこんな言葉を食事前に言うのは、日本くらいだそうです。

せっかく言い言葉を持っているんだから、その意味をしっかり知って、

いろんな事に気がついて、ちょっと考えてみるきっかけに使ってみてください。

もちろん、ごちそうさまもわすれずに。

(2010/10/26)