短考)子どもたちの「根っこ」

途上国の子どもたちの笑顔は、日本人や先進国のそれと比べて弾けていて、素敵だと言う言説って、どことなくノスタルジアと、屈折した優越感にまみれているだけだよなあ。日本人のちっさい子だって、最高の笑顔を見せるじゃんね。

昔やっていた、途上国や日本の子どもたちにインスタントカメラを配るプロジェクトで伝えたかったことの、ひとつはそこだった。違うようで、根っこは一緒なんだよと。しあわせとか、たいせつにしたいものとか、笑顔とか。

根っこは一緒だと伝えられれば、日本とか外国とか分け隔てなく、どこであろうとも、いろんなことに苦しんでいる人を支えたり、助けたりすることの大切さを、伝えられる気がして。つらさとか、苦しさとかって、やっぱり笑顔と同じで普遍的。それを一般化して、落とし込めるきっかけを提供したかった。

(2014/4)

Focus on Myself

この9月に、ヨルダンでイラク難民とパレスチナ難民の子どもたちにインスタント・カメラを配ることになった。ぼくが大学1年生のときに奥田綾香と一緒に生み出した、この「Focus on myself」というプロジェクト。ぼくたちはそのプロジェクトの一環として、いままでカンボジア・日本・インド・チベットの100人以上の子どもたちにカメラを配ってきた。このプロジェクトはぼくの大学生活そのものになりつつあるし、これからもずっとずっと何らかの形で関わっていきたいプロジェクトでもある。

そんなFocus on myselfに対して、ここにひとつ「大きな問い」がある。

ぼくたちは、子どもたちにカメラを渡して何がしたいのか。子どもたちに「たいせつなもの」「つらいこと」「自分の国の紹介」を撮ってもらうことで、何をしたいのか。

この問いに対して、ぼくが思う答えはまずひとつ「自分の視野を広げていきたい」ということだ。そして、その視野の拡大を自分だけではなく、他者にも共有したいということ。さらには子どもたち自身にも、共有したいということである。このプロジェクトをはじめたうちから、ぼくはずっとこの3つを自分の中心に置いてきたし、それはいまでも変わっていない。このプロジェクトがそもそもは単純な好奇心の延長であることに、間違いはないのだ。

じゃあ、ぼくたちはこれからこのプロジェクトをどうしていきたいのか。

正直この点に関しては、ぼく個人がとやかく言うことではないだろう。でもぼくとして思うことは、もっともっとたくさんの子どもたちの写真を見たい。見せたい。広げたい。できることならば、世界の国すべての子どもたちの写真を集めたい。そして見たい。見せたい。広げたい。それだけだ。

「え、そんなもんなんだ」と感じる人も多いと思うけれども、そんなもんで逆に何がダメなんだ、とぼくは思う。ぼくはこのプロジェクトにおけるだいじなところが「子どもたちにカメラを渡す」という行為にあると考えていない。

ぼくが思っている、このプロジェクトのだいじなところ。それは、ぼくたちが頑張って集めてきた何千枚の写真たちから、玉石混交の「要素」を汲みとっていくこと。そしてそれを整理して、考えて考えぬいて、ひとつの「形」にまとめていくことだ。これこそが、このプロジェクトにおいて一番大切で、かつ忘れてはいけない根幹の部分なんじゃないだろうか。なぜなら、この一連の「作業」をしっかりと進めれば、ぼくたちは子どもたちの心情や本音、もしくは世界の現実や真実を見出していくことができると信じているからだ。

実際に3年間このプロジェクトを続けてきたぼく自身は、そんな一連の作業を繰り返してきて、少しだけれども「形」を見出すことができたと思う。心情や本音や現実や真実を、見出すことができたと思う。それはたとえば、カンボジアの子どもたちの写真から見出した「我慢している子どもたち」や、チベットの子どもたちの写真から気がついた「民族アイデンティティの変容」。インドの子どもたちの写真からの「独特の多様性」や、日本の子どもたちの写真からの「コミュニティの希薄化」などである。

これらを見出すのは簡単な作業ではなかった。しかし、つまらない作業でもなかった。見出すことができた「形」はどれも些細なことばかりだが、これらは確実にこのプロジェクトそのものに意味を加えてくれたに違いないだろう。

さらにぼくは、こうやって見出してきた「形」をどうにか発信しようと心がけてきた。いろんな人に、いろんなことを新しく「見出してもらおう」と心がけてきた。なぜならそのふたつの部分が、このプロジェクトにおいて一番だいじなところだから。形を見出すことですら難しい作業なのだから、それらを発信しようと、もしくは自発的に見出してもらおうとすることはとても難しい。でも、そこで諦めてはいけない。諦めここままでいたら、ぼくたちは単なる「子どもたちのカメラを運ぶ脇役」に過ぎない存在になり得る。実際にそうではなくても、そう見えてしまう。

「子どもたちが主役」であるこのプロジェクトにおいて、ぼくたちが単なる「カメラを運ぶ脇役」に収まることを避けるために、ぼくたちはこのプロジェクトのもっと根本的な部分を見出す努力をして、それを発信する努力をして、さらには「見出してもらう」努力をしなくてはいけないだろう。ただ機械的に子どもたちにカメラを渡しただ粛々と写真展をしているだけじゃ、このプロジェクトは面白くない。子どもたちの写真に関して考えて見出して、それを伝えることにこそ、面白みがあり意義があるのだ。

Focus on myselfがこれからもいいプロジェクトでいてくれるために、ぼくも、もう少しだけの間そうしていきたい。そしてそれが、もっともっと大きくて素晴らしいたくさんの「形」を生み出すことを願っている。ひとりでも多くの子どもたちの写真が形を紡ぎ上げていくことを、願っている。

プロジェクトを終えて

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自分が主催していた一年がかりのプロジェクトが終わりを迎えた。

あまり実感はない。

カンボジアの子どもたちと、日本の子どもたちにインスタントカメラを渡し、同じテーマで撮影した写真の対比とともに、お互いの相互理解を含めるプロジェクト。その名も「Focus on Myself.」

渋谷でのチャリティ・ライブイベント、カンボジアでの写真展、赤レンガ倉庫での写真展、SFCの文化祭、そして代官山での写真展、のべ3000人近い人たちが、このプロジェクトで撮影された写真を見た。

そしてなかには、すごい大きい心の変化を感じてくれた人もたくさんいた。

あまり実感はない。

子どもたちに、「たいせつなもの」「つらいこと」「自分の国」という3つのテーマで、自分の気持ちを再確認してもらうという意味で、自分自身を見直すきっかけになればとか、考えてた。

でもやっぱり、このプロジェクトを自分が進めてきた一番の理由は、自分が「見たい」から。

カンボジアのスラム街に住む子どもたちの視点を。
日本のふつうの小学校に通う子どもたちの視点を。
そして写っているものの違いを。

自分が、見たいから。

好奇心だよね。

子どもたちの写真は本当にきれいなものばっかりだった。

カンボジアの子どもたちの写真は、特に興味深いものがたくさんあった。俺らが直接見ることができないようなところを写した写真や、自分を撮影したり、俺らを撮ってくれたり。

「たいせつなもの」の写真は、どっちの国も一緒だった。友達や自分の持ち物、風景や家族。「つらいこと」の写真では、カンボジアの子どもたちはほとんどみんなスラムの汚水やゴミを撮ってきた。日本の子どもたちは、バラバラだった。スラムの子どもたちは、遊んでいるときはゴミなんかまったく気にしていないようだったけれども、やっぱり「何が嫌だ?」って聞かれるとそれを答えるんだね。子どもながらに、努力して隠している部分があるんだと感じた。

「自分の国の紹介」は、やっぱりこれもどちらも一緒だった。伝統的なものだとか、建築物だとか、植物だった。ちなみに一番印象に残っているのが、カンボジアの子どもが撮った写真。俺らが写っていた。

「こうやっていろんな国の人が遊びに来てくれるのは、カンボジアの、スラムに住んでいる私たちだけの特権でしょ」と、その子は言っていた。

”支援される側にいるからこそ”、いろんな国の人たちと関われる。そういう立場を、その子は認識していた。

すごいや。

日本の子どもも、カンボジアの子どもも、視点はまっすぐで、正直で、きれいだった。

どっちの国の子にも、鋭い子も、笑う子も、何も言わない子も、ちょっと頭の回転が遅い子も、いた。

子どもたちに国なんか関係ない。

よく「途上国の子どもたちの笑顔はなんて素敵なんでしょう。日本の子どもたちの笑顔はないのか!」とかいう言葉を言う人も多いけど、そんなのまるっきりうそだとおもう。

どっちの子どもたちも、素敵です。

プロジェクトに参加した子どもたち自身の心に、変化は残せただろうか。これが一番の目標だったし、一番気になる。
日本の子どもたちは、カンボジアの子どもたちの写真を見て、ビデオレターを送って、なんかしらのポジティブな変化を自分に持つことができただろうか。
カンボジアの子どもたちは、写真の自己表現の楽しさを知ることができただろうか。日本の子どもたちという、遠くて近い存在を感じることができただろうか。そして、日本のプラスの部分だけではない、違う部分も学ぶことができただろうか。

写真を見た3000人は、何か変わっただろうか。

知りたいなあ。

好奇心だよね。

なにはともあれ、無事にプロジェクトが終わって何より。

もっといろんな国の子どもたちの自分自身を、見て行きたい。

ライフワークにしようか?

↓プロジェクトを行ったカンボジアのバサックスラム。にまいめは、カメラを持ってはしゃぐ子どもたち。
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(2010/11/06)

写真について

たとえば、あなたがカンボジアに行ったとする。
そしてスラム街で、子ども達の素晴らしい笑顔に出会ったとする。

言い忘れていたけれども、あなたの手には、高機能なコンパクト・デジタルカメラが握られているとする。

ほとんどの場合、あなたはそのカメラで、子ども達の笑顔の写真を撮るだろう。

自分が一緒に入るのか、子ども達を何人か集めるのかはわからないけども、とにかく写真を撮るだろう。

そして、あなたは子ども達に写真を見せるだろう。

あなたはそんな子ども達の笑顔の写真をたくさん撮って、帰国したら、例えばmixiやFacebookなんかのSNSにアップロードして、友達に共有するだろう。

さて、この一連の流れに、何か違和感を感じる人はいないだろうか。
当たり前すぎて、感じないかもしれない。

でも僕は、違和感を感じた。

どこに?なんで?

*

この流れは、別になんにも悪いことじゃないとは思う。

だって、その子ども達は写真を撮られて嫌な気持ちにはなっていない。カメラを持っているだけで、「撮って撮って!!」と寄ってくる子どもばっかりだ。その子たちを写真に撮ると、撮られた子どもたちは喜ぶし。

でも、僕は違和感を感じた。

*

僕が違和感を感じたのは、子ども達は写真を「撮られている」だけであるという事実に対して。

例えば撮った写真をその場で子ども達に見せてあげても、子ども達自身は一回見せてもらったらその写真を自分の手元に置いておくことはできない。思い出としての写真は残らない。それは僕らの手元にだけあって、それは僕らにとっての「思い出としての写真」になってしまう。

写真というのは、情景と一瞬を切り抜いて永久化することだ。

写真を手元に残せない子ども達にとっては、写真を撮られたことは一瞬であって、永久にならない。写真の利点が全く生かされていないのだ。言い換えれば、僕らが勝手に子ども達を撮って、勝手にそれを思い出にしているだけな気がしてしまうわけだ。

だから僕は、その行為に違和感を感じたのだ。

*

写真はコミュニケーション・ツールだ。

ただ相手を撮っているだけでは一方通行になってしまう。コミュニケーションできていない。それをしっかり、相手にとっても自分にとっても、思い出の一枚に出来ないと、写真の良さを生かせていないし、本当に自己満なんじゃないかと思ってしまう。

別に旅行先の子ども達にだけ、この話が当てはまるわけでもない。どこだって、写真はそういうものだ。

*

僕はこのことに違和感を感じてから、なんだか子ども達にカメラのレンズを向けることに戸惑いを覚えてしまった。二回目にカンボジアに行った時、僕はほとんど子ども達の写真を撮ることが出来なかった。

考えすぎと言ったらそれで終わりかもしれない。子どもたちは気にしていないかもしれない。自己満足の問題かもしれない。というか、そうだろう。

でもやっぱり、僕はこの違和感どうにか解決したかったから、今回チベットに行く前にあるものを購入した。

それは、ポータブル・プリンターだ。

デジカメとつないで、その場でシール状の写真が印刷できる、プリンターだ。

その場で写真をプリント出来れば、写真を撮って、それをプレゼントするという、「コミュニケーション」が生まれる。コミュニケーション・ツールである写真の真の良さを、生かせる。しかも、自分だけの思い出にはならない。相手にも、一瞬ではなく写真として、しっかりと手元に残る。

子ども達にも、思い出としての写真を共有することができる。子ども達の笑顔を勝手に撮るんじゃなくて、子ども達自身ともシェア出来るのだ。

買うしかないと思った。

*

僕はチベットで、それを大活用させた。チベットで実際にポータブル・プリンターを使うと、子ども達は本当に喜んでくれた。

自分が写っている写真を、恥ずかしそうに、嬉しそうに、それぞれが手にぎゅっと握って、よーく、じっくり食い入っている子どもたちを見ていると、僕もとても嬉しくなった。

そして何より、子ども達がみんな声を揃えて言ってくれる言葉に、僕は何度も感動した。凄い単純だけど、写真を撮るだけじゃ絶対に言ってもらえない言葉だった。

「トゥチェチェ(ありがとう)」。

それ聞いたとき、コミュニケーションが生まれた。違和感は消えた。
撮ってよかったと思ったし、撮るときに躊躇する事もなくなった。

*

たとえば、あなたがカンボジアに行ったとする。
そしてスラム街で、子ども達の素晴らしい笑顔に出会ったとする。

言い忘れていたけれども、あなたの手には、高機能なコンパクト・デジタルカメラが握られているとする。そして、ポータブル・プリンターもあるとする。

ほとんどの場合、あなたはそのカメラで、子ども達の笑顔の写真を撮るだろう。

自分が一緒に入るのか、子ども達を何人か集めるのかはわからないけども、とにかく写真を撮るだろう。

そして、あなたは子ども達に写真を見せるだろう。

そして、あなたは子ども達に写真を、プレゼントするだろう。

子ども達はあなたに、ありがとうと言うだろう。

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(チベットの村で、子ども達と/印刷した写真に見入る子ども達)

 

(2010/03/27)

写真の持つちから

この三連休、僕は東京都写真美術館が主催の「写美フォトドキュメンタリーワークショップ」に参加した。プロのフォトジャーナリストであるQ.サカマキさんと、AERAでフォトエディターをしている外山さんを講師とするワークショップで、将来フォトジャーナリストを目指す自分にとってはとても刺激的な時間だった。ワークショップを通じて、僕は「写真」の持つ力の素晴らしさを改めて実感することができた。

フォトジャーナリストに求められる最大の要素は、そこにある問題をどれだけ「美しく」「強く」そして「シンプルに」切り取ることができるかどうか、だ。それらの要素を兼ね備えた写真は、見ているヒトの心をがっしりと掴んで離さない。見ているヒトが写真の中に引き込まれてしまうような錯覚を覚える事もあるだろう。僕は、そうなる。

国際問題を伝える方法は、様々なものがある。講演会や文章、機関誌や映像、ホームページ。別に写真じゃなくてもいいじゃん、と言われると、そんな気もしてくる。

でも、ヒトに「こんな問題があるんだから、知らないとダメですよ!こんな可哀想なヒトたちがいるんだから、知らないとダメですよ!」とお説教するようじゃ、なかなか問題を伝えることはできない。ヒトはそういう伝え方を拒絶しがちだ。特にそもそも問題に対して興味がないヒトたちは、「自分はそんなことに触れたくない」と思ってしまう事がほとんどだと思う。

写真は、そういう壁をさらりと超えて行く。だから僕は、写真の伝える力を信じている。写真という「アート」か「ドキュメント」か、極めて曖昧な立ち位置にいる媒体だからこそ、そんな芸当がなせるに違いないだろう。写真という美しい布は、「問題」を優しく包み込むことで、見ているヒトの心にしっかりと入り込んでいく。それは、見ているヒトが自分から「何が起きているのか知りたい」と思ってしまうような魔法の力を持っている。

しかし、アートかドキュメントか曖昧な写真は、諸刃の剣でもある。それは、問題を「作品化」してしまうからだ。フォトジャーナリストは、時には死体の写真を撮ることもある。飢餓で苦しむ人々を撮ることもある。紛争の瞬間を撮ることもある。でも、それらを美しい構図の中に収めると、映っている問題は「静物」として変換されてしまう。それはアートとしての作品を成す、ひとつの要素に過ぎなくなってしまうのだ。それはある種、問題そのものを覆い隠してしまうことになり兼ねない。見ているヒトの感覚を麻痺させてしまうからだ。

アートなのか、ドキュメントなのか。

フォトジャーナリストはそのジレンマに耐えず苦しむこととなる。中にはそんな批判の矢面に立たされるフォトジャーナリストもいるし、倫理的な悩みを抱えて自殺してしまった方もいる。写真という極めて曖昧でナイーブな媒体を通すことには、それなりの責任が生じるのである。

しかし、そういう面を持っているからこそ、写真は魅力的で効果的な媒体なのだと、僕は考えている。

「一枚の写真が、世界を変えることがある。」

これは、報道写真誌DAYS JAPANの表紙に書かれている言葉だ。写真にはそれくらい強い力があると、僕は信じている。そしていつの日か、自分がそんな写真を撮ることができれば、と夢を見る。

僕の、フォトジャーナリストを志す気持ちは揺らがない。

◎追記
あと以下の写真がそのワークショップで作ったフォト・エッセイ。
テーマは「移動する人々」。

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(2010/10/22)