短考)子どもたちの「根っこ」

途上国の子どもたちの笑顔は、日本人や先進国のそれと比べて弾けていて、素敵だと言う言説って、どことなくノスタルジアと、屈折した優越感にまみれているだけだよなあ。日本人のちっさい子だって、最高の笑顔を見せるじゃんね。

昔やっていた、途上国や日本の子どもたちにインスタントカメラを配るプロジェクトで伝えたかったことの、ひとつはそこだった。違うようで、根っこは一緒なんだよと。しあわせとか、たいせつにしたいものとか、笑顔とか。

根っこは一緒だと伝えられれば、日本とか外国とか分け隔てなく、どこであろうとも、いろんなことに苦しんでいる人を支えたり、助けたりすることの大切さを、伝えられる気がして。つらさとか、苦しさとかって、やっぱり笑顔と同じで普遍的。それを一般化して、落とし込めるきっかけを提供したかった。

(2014/4)

刺激がなくても。

ぼくはいま、四度目のカンボジアにいる。「カンボジア」という響きから連想されることは、だいたい見たし、経験したし、知った気がする。奢りかも知れないけれど、ぼくはそう思ってる。

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四度目だと、道もある程度覚えるし、言葉も少しは話せるようになる。スラム街の子供たちと顔見知りになったり、市場やトゥクトゥクでの値切りもかなり上達した。

正直慣れてしまったんだと思う。街に鳴り響くクラクションにも、オールド・マーケットの生活臭にも、トゥクトゥクで味わう向かい風にも、刺激を感じなくなってしまった。でもぼくは、それを悪いことだとは思わない。なぜなら、ぼくは「刺激を得るために」カンボジアに来ているわけではないからだ。

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ぼくは「カンボジア」と仲良くなりたいと思って、カンボジアに来ている。

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大学生の国際協力といえばカンボジア。カンボジアに来れば、発展途上国を見ることができる。スラム街、ゴミ山、騒がしく汚い街がある。刺激が、たくさんある。カンボジアには、そんなイメージが潜在的に埋め込まれてしまっている気がする。ぼくはそれが、嫌だ。

なぜなら、カンボジアはアトラクションではないからだ。そこに暮らし、日々を生きていく人たちは、ぼくたちに刺激をもたらすために生きているわけではない。自分たちのために、生きている。
知りたい、見たいというのはいいけれども、それを目的にカンボジアに行くのって、なんだか上から目線なんじゃないか。ぼくはそういうジレンマを感じるのだ。だからぼくは決めた。カンボジアと、仲良くなりたいと。

友達とおなじだ。刺激を求めるために、ぼくらは新しい友達と会っているわけではない。どんどん話して遊んで飲んで、お互いを理解して、刺激とかそういうのじゃなく、阿吽の呼吸が生まれるくらいになりたいから、ぼくたちは友達と会う。四度目だから刺激がないなんて友達に言ったら、嫌われるに決まってる。会えば会うほど、相手のいいところと悪いところを知って、仲良くなることこそが、友達を作る醍醐味なのだ。

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ぼくはカンボジアに四回来て、いいところと悪いところを知った。刺激はないけれど、まだまだ気がつくこともたくさんある。まだまだ知らないところもある、知りたいところもある。奢っている自分もいる。それゆえ、まだまだカンボジアを知りたいし、まだまだカンボジアを経験したい。

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ぼくはこれからも何回も、カンボジアに来るだろう。
カンボジアと、仲良くなるために。

【学生団体S.A.L.ブログより転載】

Focus on Myself

この9月に、ヨルダンでイラク難民とパレスチナ難民の子どもたちにインスタント・カメラを配ることになった。ぼくが大学1年生のときに奥田綾香と一緒に生み出した、この「Focus on myself」というプロジェクト。ぼくたちはそのプロジェクトの一環として、いままでカンボジア・日本・インド・チベットの100人以上の子どもたちにカメラを配ってきた。このプロジェクトはぼくの大学生活そのものになりつつあるし、これからもずっとずっと何らかの形で関わっていきたいプロジェクトでもある。

そんなFocus on myselfに対して、ここにひとつ「大きな問い」がある。

ぼくたちは、子どもたちにカメラを渡して何がしたいのか。子どもたちに「たいせつなもの」「つらいこと」「自分の国の紹介」を撮ってもらうことで、何をしたいのか。

この問いに対して、ぼくが思う答えはまずひとつ「自分の視野を広げていきたい」ということだ。そして、その視野の拡大を自分だけではなく、他者にも共有したいということ。さらには子どもたち自身にも、共有したいということである。このプロジェクトをはじめたうちから、ぼくはずっとこの3つを自分の中心に置いてきたし、それはいまでも変わっていない。このプロジェクトがそもそもは単純な好奇心の延長であることに、間違いはないのだ。

じゃあ、ぼくたちはこれからこのプロジェクトをどうしていきたいのか。

正直この点に関しては、ぼく個人がとやかく言うことではないだろう。でもぼくとして思うことは、もっともっとたくさんの子どもたちの写真を見たい。見せたい。広げたい。できることならば、世界の国すべての子どもたちの写真を集めたい。そして見たい。見せたい。広げたい。それだけだ。

「え、そんなもんなんだ」と感じる人も多いと思うけれども、そんなもんで逆に何がダメなんだ、とぼくは思う。ぼくはこのプロジェクトにおけるだいじなところが「子どもたちにカメラを渡す」という行為にあると考えていない。

ぼくが思っている、このプロジェクトのだいじなところ。それは、ぼくたちが頑張って集めてきた何千枚の写真たちから、玉石混交の「要素」を汲みとっていくこと。そしてそれを整理して、考えて考えぬいて、ひとつの「形」にまとめていくことだ。これこそが、このプロジェクトにおいて一番大切で、かつ忘れてはいけない根幹の部分なんじゃないだろうか。なぜなら、この一連の「作業」をしっかりと進めれば、ぼくたちは子どもたちの心情や本音、もしくは世界の現実や真実を見出していくことができると信じているからだ。

実際に3年間このプロジェクトを続けてきたぼく自身は、そんな一連の作業を繰り返してきて、少しだけれども「形」を見出すことができたと思う。心情や本音や現実や真実を、見出すことができたと思う。それはたとえば、カンボジアの子どもたちの写真から見出した「我慢している子どもたち」や、チベットの子どもたちの写真から気がついた「民族アイデンティティの変容」。インドの子どもたちの写真からの「独特の多様性」や、日本の子どもたちの写真からの「コミュニティの希薄化」などである。

これらを見出すのは簡単な作業ではなかった。しかし、つまらない作業でもなかった。見出すことができた「形」はどれも些細なことばかりだが、これらは確実にこのプロジェクトそのものに意味を加えてくれたに違いないだろう。

さらにぼくは、こうやって見出してきた「形」をどうにか発信しようと心がけてきた。いろんな人に、いろんなことを新しく「見出してもらおう」と心がけてきた。なぜならそのふたつの部分が、このプロジェクトにおいて一番だいじなところだから。形を見出すことですら難しい作業なのだから、それらを発信しようと、もしくは自発的に見出してもらおうとすることはとても難しい。でも、そこで諦めてはいけない。諦めここままでいたら、ぼくたちは単なる「子どもたちのカメラを運ぶ脇役」に過ぎない存在になり得る。実際にそうではなくても、そう見えてしまう。

「子どもたちが主役」であるこのプロジェクトにおいて、ぼくたちが単なる「カメラを運ぶ脇役」に収まることを避けるために、ぼくたちはこのプロジェクトのもっと根本的な部分を見出す努力をして、それを発信する努力をして、さらには「見出してもらう」努力をしなくてはいけないだろう。ただ機械的に子どもたちにカメラを渡しただ粛々と写真展をしているだけじゃ、このプロジェクトは面白くない。子どもたちの写真に関して考えて見出して、それを伝えることにこそ、面白みがあり意義があるのだ。

Focus on myselfがこれからもいいプロジェクトでいてくれるために、ぼくも、もう少しだけの間そうしていきたい。そしてそれが、もっともっと大きくて素晴らしいたくさんの「形」を生み出すことを願っている。ひとりでも多くの子どもたちの写真が形を紡ぎ上げていくことを、願っている。

プロジェクトを終えて

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自分が主催していた一年がかりのプロジェクトが終わりを迎えた。

あまり実感はない。

カンボジアの子どもたちと、日本の子どもたちにインスタントカメラを渡し、同じテーマで撮影した写真の対比とともに、お互いの相互理解を含めるプロジェクト。その名も「Focus on Myself.」

渋谷でのチャリティ・ライブイベント、カンボジアでの写真展、赤レンガ倉庫での写真展、SFCの文化祭、そして代官山での写真展、のべ3000人近い人たちが、このプロジェクトで撮影された写真を見た。

そしてなかには、すごい大きい心の変化を感じてくれた人もたくさんいた。

あまり実感はない。

子どもたちに、「たいせつなもの」「つらいこと」「自分の国」という3つのテーマで、自分の気持ちを再確認してもらうという意味で、自分自身を見直すきっかけになればとか、考えてた。

でもやっぱり、このプロジェクトを自分が進めてきた一番の理由は、自分が「見たい」から。

カンボジアのスラム街に住む子どもたちの視点を。
日本のふつうの小学校に通う子どもたちの視点を。
そして写っているものの違いを。

自分が、見たいから。

好奇心だよね。

子どもたちの写真は本当にきれいなものばっかりだった。

カンボジアの子どもたちの写真は、特に興味深いものがたくさんあった。俺らが直接見ることができないようなところを写した写真や、自分を撮影したり、俺らを撮ってくれたり。

「たいせつなもの」の写真は、どっちの国も一緒だった。友達や自分の持ち物、風景や家族。「つらいこと」の写真では、カンボジアの子どもたちはほとんどみんなスラムの汚水やゴミを撮ってきた。日本の子どもたちは、バラバラだった。スラムの子どもたちは、遊んでいるときはゴミなんかまったく気にしていないようだったけれども、やっぱり「何が嫌だ?」って聞かれるとそれを答えるんだね。子どもながらに、努力して隠している部分があるんだと感じた。

「自分の国の紹介」は、やっぱりこれもどちらも一緒だった。伝統的なものだとか、建築物だとか、植物だった。ちなみに一番印象に残っているのが、カンボジアの子どもが撮った写真。俺らが写っていた。

「こうやっていろんな国の人が遊びに来てくれるのは、カンボジアの、スラムに住んでいる私たちだけの特権でしょ」と、その子は言っていた。

”支援される側にいるからこそ”、いろんな国の人たちと関われる。そういう立場を、その子は認識していた。

すごいや。

日本の子どもも、カンボジアの子どもも、視点はまっすぐで、正直で、きれいだった。

どっちの国の子にも、鋭い子も、笑う子も、何も言わない子も、ちょっと頭の回転が遅い子も、いた。

子どもたちに国なんか関係ない。

よく「途上国の子どもたちの笑顔はなんて素敵なんでしょう。日本の子どもたちの笑顔はないのか!」とかいう言葉を言う人も多いけど、そんなのまるっきりうそだとおもう。

どっちの子どもたちも、素敵です。

プロジェクトに参加した子どもたち自身の心に、変化は残せただろうか。これが一番の目標だったし、一番気になる。
日本の子どもたちは、カンボジアの子どもたちの写真を見て、ビデオレターを送って、なんかしらのポジティブな変化を自分に持つことができただろうか。
カンボジアの子どもたちは、写真の自己表現の楽しさを知ることができただろうか。日本の子どもたちという、遠くて近い存在を感じることができただろうか。そして、日本のプラスの部分だけではない、違う部分も学ぶことができただろうか。

写真を見た3000人は、何か変わっただろうか。

知りたいなあ。

好奇心だよね。

なにはともあれ、無事にプロジェクトが終わって何より。

もっといろんな国の子どもたちの自分自身を、見て行きたい。

ライフワークにしようか?

↓プロジェクトを行ったカンボジアのバサックスラム。にまいめは、カメラを持ってはしゃぐ子どもたち。
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(2010/11/06)