短考)言論について

新聞は日々のニュースを売っているわけじゃない。その中から生み出される「言論」(ないしはその空間)を提供しているんだと思う。オピニオン、インタビュー、論文、コラム、声欄などなど。「ニュースを見るならネットでいい」。これには同意する。
単純なストレートニュースは、どのソースにしてもほとんど内容は変わらない。重要なのは、そういうストレートニュースを広げたり、複数の人が議論をしたり、識者が考え語ったりするもの。そしてそれが、多くの人たちに一斉に配信されるもの。こういう類いの「言論」って、あんまりネット上にはない。「言論」には、信頼性と共有性が必要だ。それらがしっかりと担保された「言論」が、記録性と一覧性にすぐれた紙に印刷されることに、意味はある。視角的に読みやすいようデザインされ、かつ保存性に優れている新聞のウリだ。自らがアクセスしたい「言論」以外の見地を広げるには、新聞っていうのは最も有効なツールなはずだ

新聞を読まないは、ニュースを見ないと=(イコール)にはならない。自分は興味がない、知らない、自分からは見えない「言論」を、もっともっと深いところにしまい込んでしまうことに、つながるんじゃないかと、僕はどことなく危機感を覚える。

(2014/1/3)

山あいの村のおばあちゃんがイラク戦争を語り、東大生が過疎を語る。海辺の町の若い漁師のにーちゃんが反原発を想い、市民活動家が干拓問題を解く。みんなが自分にも関係のない大きな事柄に関して、何かしらの意見を持つことが、言論だと思うんだよね。

(2014/4)

「テロ」について

大学の授業で「テロ」についての論文を書いている間、ぼくはテロに関する3000件以上の記事を読んできた。米同時多発テロや地下鉄ゲリラ事件をはじめとした、大小様々なテロ事件が、その裏に存在している。膨大な新聞記事を読み漁りながらぼくは、「ああ、なんだかこんな論文を“書けない”世界だったらいいのにな」と、思ったりした。ものすごく平和ボケした考えなのかもしれないけれど、テロなんて起きないような世界だったなら、そもそもこんな論文を書くことも無いのだから。

テロという暴力行為―それが良いテロにしろ悪いテロにしろ―の裏側には、おおくの死がある。怒りがある。そして、悲しみがある。たとえば「イラクの首都バグダッドで起きた自動車爆弾テロで40名が死亡した」というニュースの裏側では、いったい何人の人たちの悲しみが生まれているのだろうか。ひとりの死者には多くの家族や友人がいる。もしかしたら、恋人もいる。テロの現場で流れるのは血だけではない。涙だって流れるのだ。

ぼくらはそれにしっかりと気付き、もっと知っていかなければいけないのではないだろう。でも、ぼくらにはそれが出来ていない。出来ない。ぼくらはそんなことを対して気に掛けることもなく、「ああ、またか」とつぶやき、「日本で起きたらやだな」くらいの感想を述べる。テロに関するニュースを見たときのぼくらの感覚はえらく麻痺しているのだ。それと同じようにテロという事象の背景に存在するさまざまな問題にだって、気付くこともできていない。知ろうともしない。

そこでたいせつなのは、想像力だ。想像力を働かせながらニュースを見ていくことさえすれば、それらに気がつくことが出来る、知ることが出来る。「周りのどうなってしまっているんだろう」だとか「どうしてこんなことが起こるんだろう」ともっともっと考えて、もっともっと想像することは、簡単で意味の無いように見えて、とても難しくて意味のあることなのだ。

もうひとつたいせつなことは、偏見をなくすこと。イスラムと言えばテロ、アッラーと言えばテロ、中東はなんだか怖いなんていうくだらないステレオタイプははやく捨てて、広い視野を持つべきだ。偏見ていうとんでもなく悲しくて分厚い、邪悪な壁がどんどん膨らんで、いつしかそれがテロとその報復につながっているのだと、ぼくたちは意識しなければならない。

世界中のひとたちが、たっぷりの想像力と、おおきな視野を持ち合わせてくれれば、ぼくがこんな論文を“書かない“世界は実現するのではないだろうか。いや、実現するに違いない。少なくとも、ぼくはそう確信している。

(2010/11/14)