原爆症裁判と自分

原爆症とか被爆者っていうのは、どことなくもう「歴史」なのかなと思っていました。69年も前の話だし、「はだしのゲン」で描かれているような人たちっていうのは、まったく自分と出会うことはないんだろうなあと。出会っても、テレビとか、教科書のなかだけだと。もちろん、原爆はだめだとか、核廃絶だとか、そういうことは思っていました。それとこれとは、ちょっとばかり違う感覚です。
このあいだ、熊本で原爆症の認定をいちど却下された人たちが、やっぱり認めてほしいと求める訴訟が、ありました。そこで僕ははじめて、被爆者の人と出会い、話しました。歴史じゃあなかった、現実なんだと、痛感させられました。自分の無知さを、想像力のなさを、恥じました。

腕時計

腕時計なんて、そもそもどんなものも似たり寄ったりだ。色や形に多少の違いはあれども、強烈に記憶に残るものなんてほとんどない。たまにあったとしても、それはフランク・ミューラーだとかダイヤモンドがちりばめられているだとか、そういう類であることが多い。よっぽどの腕時計マニアじゃなければ、ひとつひとつの腕時計を記憶することなんかできないだろう。僕は腕時計マニアではないし、高級腕時計を持っているわけでもない。要は腕時計に無頓着なのだが、実はそんな僕にも人生で唯一忘れることのできない腕時計がある。きっともともとは何の変哲もない、数多ある普通の腕時計のひとつに過ぎなかったに違いない。しかしその腕時計が放つ不思議なオーラは僕に恐怖を与えるし、なんだか持ち主の人生が丸ごと包含されている様な重みがある。

その腕時計は今この瞬間も、ガラスケースの中にそっと置かれていて、「8時15分」を指したまま止まっている。熱線でボロボロになったベルト、爆風で曲がった時針、焦げた文字盤。腕時計は、その日の8時14分までは普通に時を刻んできた。しかし「ある瞬間」を越えてから、「その瞬間」を記憶したまま二度と動かなくなってしまったのである。持ち主は出勤途中だったのだろうか、通学途中だったのだろうか、それは誰にもわからない。しかし、「持ち主」というひとりの人間の影みたいなものが、その腕時計には少しだけ残っているようにも感じる。誰かがついさっきまでそれを身につけていて、ふと文字盤に目をやったりしているのではないか、と思わせる生温かさがある。その生温かさはなんだか不気味でもある気がするし、安心感がある気もする。

腕時計は、僕たちに想像力を与える。その瞬間に何が起こったのか、一瞬にして全てが失われ、破壊されると言う恐ろしさに気付くことが出来る想像力だ。人ひとりの人生が一瞬で終わってしまうこと、そして人ひとりがほんとうに小さい存在で、簡単に消え去ってしまうことに気付くことが出来る、想像力だ。そしてその想像力は僕らの感情に訴えかけ、怒りや悲しみを覚えるようになる。ひとつの腕時計なのに、そこまで人を動かしてしまう力を持っているのである。

腕時計なんて、そもそもどんなものも似たり寄ったりだ。でも「8時15分」と「11時2分」を指したまま止まってしまったいくつかの腕時計たちは、色や形に多少の違いはあれども、世界を変える大きな力を持っている。僕らはそれを見て、多くのことを知るし、気付くことができる。永遠に時を刻まなくなった腕時計は、永遠にその瞬間を記憶し続け、永遠に「その出来事」を物語るのである。

(2010/09)