投票日に、思ったこと-ポスト五輪のこの国を見据えて

”ポスト五輪”のこの国がどうなっているのかを見据える想像力が、この国には決定的に欠けていると、ぼくは思う。誇れる国だとか、輝ける国だとか、そんなのはただの懐古主義だ。成長神話を脱ぎ捨て、必ず訪れる、ないしはすでに訪れている低成長の時代をどう生きるか、考え、問わないといけない時期に来ているのに。

自分の子どもや孫たちが、ポスト五輪のこの国に訪れる、ないしは訪れている緩やかな後退時代に、いかに幸せに生きられるのか。そういう想像力を持って政治に参加することが必要なのではないか。世の中が、そして経済が、永遠に成長するなんて、あり得ないんだから。「成長」とはちがうオプションを、真剣に見出すべき時期に来ていると思う。そうすれば、世の中はもう少し良くなるんだとも、思う。

もちろん、だいじなテーマは「成長」だけではない。原発の再稼働だって、集団的自衛権の行使容認に関する”閣議決定”や、秘密法など安全保障分野の議論だって。来年、必ずやってくる憲法9条の改正議論だって、歴史認識をめぐる国際的な立ち位置だって。「ポスト五輪のこの国」を想像したときに、どんな国になって欲しいか選ぶことのできる様々なテーマが、この選挙ではずいぶんと隠されていながらも、問われている。

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想像力×創造力について

いきなりだけれども、会田誠展に行ったとき、いちばんいいなって思ったのは、「イマジン」っていう作品だ。飛行機のコックピットからツインタワーが見えているという絵なんだけれども、「ああ、こういう視点で911同時多発テロ」を考えたことがなかったなあと、ものすごく考えさせられた。

想像力×創造力のたまものって、めちゃくちゃ力がある。

なんでそんなことを考えたのかというと、演劇「今伝えたいこと(仮)」をつくっている相馬高校放送局の顧問の先生や、女子高生たちに出会ったから。

原発や地震の被害にあった相馬高校。彼女たちは、劇やラジオや映像作品で、自分たちや福島の、相馬の人たちの思いの内を表現しているんだけれど、それがやっぱり響く。

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「テロ」について

大学の授業で「テロ」についての論文を書いている間、ぼくはテロに関する3000件以上の記事を読んできた。米同時多発テロや地下鉄ゲリラ事件をはじめとした、大小様々なテロ事件が、その裏に存在している。膨大な新聞記事を読み漁りながらぼくは、「ああ、なんだかこんな論文を“書けない”世界だったらいいのにな」と、思ったりした。ものすごく平和ボケした考えなのかもしれないけれど、テロなんて起きないような世界だったなら、そもそもこんな論文を書くことも無いのだから。

テロという暴力行為―それが良いテロにしろ悪いテロにしろ―の裏側には、おおくの死がある。怒りがある。そして、悲しみがある。たとえば「イラクの首都バグダッドで起きた自動車爆弾テロで40名が死亡した」というニュースの裏側では、いったい何人の人たちの悲しみが生まれているのだろうか。ひとりの死者には多くの家族や友人がいる。もしかしたら、恋人もいる。テロの現場で流れるのは血だけではない。涙だって流れるのだ。

ぼくらはそれにしっかりと気付き、もっと知っていかなければいけないのではないだろう。でも、ぼくらにはそれが出来ていない。出来ない。ぼくらはそんなことを対して気に掛けることもなく、「ああ、またか」とつぶやき、「日本で起きたらやだな」くらいの感想を述べる。テロに関するニュースを見たときのぼくらの感覚はえらく麻痺しているのだ。それと同じようにテロという事象の背景に存在するさまざまな問題にだって、気付くこともできていない。知ろうともしない。

そこでたいせつなのは、想像力だ。想像力を働かせながらニュースを見ていくことさえすれば、それらに気がつくことが出来る、知ることが出来る。「周りのどうなってしまっているんだろう」だとか「どうしてこんなことが起こるんだろう」ともっともっと考えて、もっともっと想像することは、簡単で意味の無いように見えて、とても難しくて意味のあることなのだ。

もうひとつたいせつなことは、偏見をなくすこと。イスラムと言えばテロ、アッラーと言えばテロ、中東はなんだか怖いなんていうくだらないステレオタイプははやく捨てて、広い視野を持つべきだ。偏見ていうとんでもなく悲しくて分厚い、邪悪な壁がどんどん膨らんで、いつしかそれがテロとその報復につながっているのだと、ぼくたちは意識しなければならない。

世界中のひとたちが、たっぷりの想像力と、おおきな視野を持ち合わせてくれれば、ぼくがこんな論文を“書かない“世界は実現するのではないだろうか。いや、実現するに違いない。少なくとも、ぼくはそう確信している。

(2010/11/14)

腕時計

腕時計なんて、そもそもどんなものも似たり寄ったりだ。色や形に多少の違いはあれども、強烈に記憶に残るものなんてほとんどない。たまにあったとしても、それはフランク・ミューラーだとかダイヤモンドがちりばめられているだとか、そういう類であることが多い。よっぽどの腕時計マニアじゃなければ、ひとつひとつの腕時計を記憶することなんかできないだろう。僕は腕時計マニアではないし、高級腕時計を持っているわけでもない。要は腕時計に無頓着なのだが、実はそんな僕にも人生で唯一忘れることのできない腕時計がある。きっともともとは何の変哲もない、数多ある普通の腕時計のひとつに過ぎなかったに違いない。しかしその腕時計が放つ不思議なオーラは僕に恐怖を与えるし、なんだか持ち主の人生が丸ごと包含されている様な重みがある。

その腕時計は今この瞬間も、ガラスケースの中にそっと置かれていて、「8時15分」を指したまま止まっている。熱線でボロボロになったベルト、爆風で曲がった時針、焦げた文字盤。腕時計は、その日の8時14分までは普通に時を刻んできた。しかし「ある瞬間」を越えてから、「その瞬間」を記憶したまま二度と動かなくなってしまったのである。持ち主は出勤途中だったのだろうか、通学途中だったのだろうか、それは誰にもわからない。しかし、「持ち主」というひとりの人間の影みたいなものが、その腕時計には少しだけ残っているようにも感じる。誰かがついさっきまでそれを身につけていて、ふと文字盤に目をやったりしているのではないか、と思わせる生温かさがある。その生温かさはなんだか不気味でもある気がするし、安心感がある気もする。

腕時計は、僕たちに想像力を与える。その瞬間に何が起こったのか、一瞬にして全てが失われ、破壊されると言う恐ろしさに気付くことが出来る想像力だ。人ひとりの人生が一瞬で終わってしまうこと、そして人ひとりがほんとうに小さい存在で、簡単に消え去ってしまうことに気付くことが出来る、想像力だ。そしてその想像力は僕らの感情に訴えかけ、怒りや悲しみを覚えるようになる。ひとつの腕時計なのに、そこまで人を動かしてしまう力を持っているのである。

腕時計なんて、そもそもどんなものも似たり寄ったりだ。でも「8時15分」と「11時2分」を指したまま止まってしまったいくつかの腕時計たちは、色や形に多少の違いはあれども、世界を変える大きな力を持っている。僕らはそれを見て、多くのことを知るし、気付くことができる。永遠に時を刻まなくなった腕時計は、永遠にその瞬間を記憶し続け、永遠に「その出来事」を物語るのである。

(2010/09)