おじいさんの語る、戦争のリアル 

こぼれ話。きょうは、神戸空襲を生き延びたおじいさんに会ってきました。

空襲後、市内に墜落したB29の機体には、等身大の女性のヌードがペイントされていたそうです。町の男たちは被災直後にも関わらず、それを見ようと、わらわらと残骸に集まっていたとか。

「兵隊さんが焦げたトタンでヌードを隠すんやけど、風でしょっちゅう取れてな。みんなで『見えた!』『見えた!』ってやってたわ

豪快に笑うおじいさん。見に行ったのは墜落の3日後だったけれども、死んだ米兵の遺体はそのまま。遺体に石を投げたり、持ち物を盗んだりしていた人もいたとか。笑い話とのギャップがこれまた、リアル。

Read More

イラク戦争から10年。

イラク戦争から10年。

ヨルダンでイラク難民に出会ったり、高遠菜穂子さん と活動したぼくには、この10年の節目に何が出来るんだろうと考えてみて。いまの仕事柄、「伝える」ことが自分がいちばんできることだなあと結論づけてみて。そうして、けっこうな想いを込めて、自分の働く新聞会社で、記事を書きました。

もうイラク戦争から10年も経ってしまったんだと思ういっぽうで、まだ10年しか経っていないんですよね。

ぼくらにとっては当たり前のように過ぎていった10年間だったけれども、イラクの人たちや、戦争に巻き込まれた人たちにとってみれば、悲しくて、辛くて、どうしようもない気持ちが積み重なった10年間だったはず。
Read More

サナおばさんの9.11

ぼくが9月11日をどう思うかを聞くと、サナおばさんはゆっくりと、そして流暢な英語で話しはじめた。

「同時多発テロが起きたときわたしは、よし、アメリカが攻撃された。よくやった、と思ってしまいました」。

*

サナおばさんはイラク難民の女性だ。夫はもともと大学院の教授で、彼女自身もイギリスで暮らしていた経験がある。知識層であったがために、フセイン政権崩壊後には武装勢力に連れされさられた。いま、彼女は一家でイラクからヨルダンに逃げ、アンマンで難民として暮らしている。

*

「しかしわたしは考え直したんです。9月11日のその日、無垢な人々がたくさんあのビルにはいて、みんな死んでしまった。もしもわたしの家族、息子や娘が彼らと同じようにあのビルの中にいたら。そう考えると、わたしはとても悲しくなるんです。日本人も含め、多くのアラブ人も犠牲になっている。すべてのひとびとは、みんな無垢なひとびとだったののです」。

サナおばさんは一息ついて、続けた。

「だからわたしはほんとうに、彼らに申し訳ないと感じています」。

同時多発テロのことを、いちどでも「よし」と思ってしまった自分を、彼女は責めていた。「無垢な人々は、政府とは関係がないのに」。アメリカの政府は嫌いだという彼女も、アメリカのひとびとを嫌いだとは思っていないのだ。

*

アメリカ政府がイラクでしてきたことを、彼女は身をもって経験してきた。だから彼女はアメリカ政府が嫌いだ。彼女のとある友人は3年前、自宅にいるところを爆撃された。粉々にされた彼女の家々から見つかったのは、たったひとつのキーホルダーだけだった。「そんなことがイラクでは何百も、それ以上も起きているんですよ」。そう語るサナおばさんの表情は、とても硬かった。

「アメリカ政府は泥棒とおなじです。豊かな国だったイラクから(二度の)戦争で、石油を奪っていったから」。

*

きょう、9月11日。同時多発テロ10年目の日に、ぼくはイラク難民の家で、彼女自身の口から、彼女の「9.11」を聞いた。

「サナおばさんの9.11」は、ぼくにとっての9.11をおおきく変えた。単なるテレビの中の出来事でも、歴史上の出来事でもない「9.11」が、そこにはあった。それは彼女たちにイラク難民にとって、そしてその他のイラク人、アフガン人にとって、紛れもなく「自分の人生を変えた出来事」だったのだ。

彼女の大好きだったイラクは破壊されつくされ、彼女は自分の国を捨てざるを得なくなった。彼女が伝統的なアラブ菓子を振る舞いながら見せてくれる笑顔の裏側には、ぼくには到底理解し得ない悲しみと、悩みがあったに違いない。

*

宿で出会った香港人にこの話をしたら、彼はぼくに尋ねた。「君はそういう経験をしたうえで、日本に帰ったらイラクの人たちにどうしたいの?なにができるの?」

ぼくはこの10年間、なにをして来たんだろう。そしてこのあとの10年間、ぼくにはいったいなにができるんだろう。

カシミール、標高1800mの楽園。

カシミール地方に行く前の晩、ぼくは恐怖を感じていた。死ぬんじゃないか、もう日本には帰れないんじゃないか、そんなことをずっと考えていた。「カシミール」ということばの響きがぼくに、いまだ戦闘が絶えない紛争地帯、もしくはテロが頻発する危険地帯を連想させたからだ。砂っぽい大地にムスリムの過激派、そんなイメージがぼくの中で構築されていた。

翌朝、チベット亡命政府があるダラムサラからジープで12時間。ぼくたちは幾重にも重なる峠を越え、そしてインドでいちばん長いという2650mのトンネルを抜けて、カシミールに到達した。

ドライバーが「カシミール!」と叫んだ瞬間だった。夕陽に照らされた美しい山々と、風に波打ち銀色に輝くサフランたちが織り出す最高の景色が、ぼくたちの目の前に広がった。ぼくはほんとうに、文字通り、息を呑んだ。こんなところで戦争が起きていたなんて、にわかには信じ難い。それくらいすばらしい景色が、そこにはあったのだ。カシミールは、標高1800mの高地にある、楽園だった。ぼくは心から、そう思った。

カシミール地方

カシミール地方はイスラーム文化圏に属する。ここスリナガルにもモスクがいくつもあり、ラマダンの今は夜がくると大砲の音が街に響き渡る。「ドン」という音が聞こえたら、食事をはじめていいという合図なのだ。街中にはブルカを着た女性がたくさん歩いていて、なんだか異文化のど真ん中にいるんだな、と痛感させられる。

昨日、あるイスラーム教徒と出会った。彼の名前はシャビール。「ぼくは仏教徒が大好きだよ」と、シャビールは切り出した。なんで?とぼくが聞くと、彼は続けた。

「なぜなら、彼らは平和を愛しているからさ。もちろんそれは仏教徒だけではない。イスラーム教徒だって、キリスト教徒だって、みんな平和を愛しているんだ。平和が嫌いな人なんかいない。しかしアフガニスタンやイラクをみてくれ。アメリカやイギリスの政治家は戦争が好きなんだ。ほんとうは平和が好きなイスラーム教徒を、なんでやつらはあんなに殺すんだ」。

ぼくはそれに対して、何もいうことができなかった。少し考えてやっと出てきたセリフは、「I think so too, war is very bad.」という中学生の英作文みたいに陳腐なものだった。

なんで何もいうことができなかったのか。たぶん、テレビや本の中でしか知らない世界がこんなに近くに広がっていることに、ぼくは戸惑ってしまったんだと思う。いままで「現実」だと知らされてきて、自分の頭の中で「現実」として捉えていた世界。それは結局、映画のようにぼやっとした「非現実的なイメージ」に過ぎなかった。それを現実と思い込んでいたに、過ぎなかった。

だからぼくは戸惑ってしまった。「ほんとうにこういう考え方の人がいるんだ」。非現実だと思ってたイメージがほんとうに現実であることに対して、ある種のショックを受けてしまったのだ。

この経験はぼくにとって、イスラーム教徒に対するステレオタイプの強化になったのか、それともステレオタイプの破壊になったのか。どちらなのかはぼくにもわからない。

ただひとつ言えることは、「イスラーム」というものが自分の中で
「ほんとうの存在」になったということだ。それは映画の中の設定でも、本の中の主人公でもなんでもない、紛れもない「現実」なのだ。

ぼくはシャビールと写真を撮って、アドレスを交換した。「写真を送ってくれ。俺のホームページにアップロードして、日本とイスラームのつながりをみんなに知らせていこう」。彼は笑顔で言った。

カシミール地方、特に州都スリナガルの情勢はここ2-3年、落ち着いている。国境沿いの小競り合いはたまにあるものの、大規模な戦闘は起きていないという。しかしぼくのような悪いイメージを持った外国人は、ほとんどここを訪れない。

ダル湖に浮かぶスリナガル名物の「ハウスボート」という水上ホテルも、そこまで活気に溢れているとはいえない。ハウスボートのオーナーが言うには、最近になってやっとインド人観光客が戻りつつあるが、それでもまだまだ20年前の活気とは程遠いらしい。

「この素晴らしさを、日本人の友達に伝えてくれ。そうやってカシミールに観光客を、送ってほしいんだよ」。ぼくはオーナーに、そんなことをいわれた。

いつかこの素晴らしいカシミールが、大勢の観光客で溢れかえる日が来るのだろうか。もしその日が来るとしたら、シャビールはどんなことを考えて、出会った観光客たちに何を語るんだろうか。

そんなことを想像しながら、ぼくはいま、カシミールにいる。目の前には美しい山々と、ハウスボートが浮く美しい湖がある。そしてとても美味しいカシミールティーのシナモンの匂いが、ぼくの鼻をつんと突く。ここはほんとうに、標高1800mの楽園だ。

(学生団体S.A.L.ブログより転載)